恋愛も結婚も神様の前に生きること
土曜日のテーマは「恋愛、結婚」です。良い恋愛、結婚のポイントは神様を中心にすることだと思います。恋愛も結婚も決して二人だけの問題ではありません。それぞれが神様の前に生きることと受け止めることは大切なことだと思います。
どんな時にも味方になると心を決めること
相性も大切ですが、良きパートナーとなること、どんな時にも味方になると心を決めること。その結婚の誓いを生涯、神様の前に果たして行こうと努力することが大切ではないでしょうか。恋愛期間とは、そのような人生の目的を共有することができる人なのかどうかを見極める期間だと思います。
「尊敬できる人」と付き合うべきではないか
どうやって、そのような目的を共有できる人かどうかを見極めたら良いのでしょうか。「ただ好きなだけの人ではなく『尊敬できる人』と付き合うべきではないか」という記事を見つけましたのでご紹介いたします。これも1つの参考になるのではないでしょうか。
尊敬=愛だから
結婚相手について何を重視するべきか。「Elite Daily」ライターPaul Hudson氏は「尊敬できるかどうか」がポイントだと言います。尊敬なくして「永遠の愛」は叶うはずもありません。なぜなら、尊敬=愛だから。つまり、その人の強さや美しさ、知性や知恵を誇りに思うこと。恋愛に答えなんてありませんが、相手を選ぶときの基準に「尊敬できるかどうか」を加えてみてはいかがでしょうか。(記事からの抜粋は以上です。)
どういう人を尊敬しますか
目先の損得ではなく、また人が見ていない所でも、神様の前に正しく生きようとしている人。そういう人を誇りに思うのではないでしょうか。それは自分がそのような生き方に価値を置いているからだと思います。そういう価値観を共有できる人なのかどうか。それは単なる好き嫌いや相性ではなく重要なことではないでしょうか。
軽蔑する人のパートナーになるのは困難でしょう
お互いに尊敬できるかところがあれば、その人のパートナーとなり、いつもその人の味方となり、その人をサポートすることは容易になりますが、軽蔑している人のパートナーとなり、いつもそのような人の味方となり、その人をサポートすることは困難だと思います。
尊敬できる点に思いを向けることの大切さ
もちろん、結婚すれば、尊敬できる点ばかりではなく、気になる点も見えてくるはずです。そんな時こそ、その人の尊敬すべき点に思いを向けるべきではないでしょうか。決して軽蔑しないようにしましょう。軽蔑する人を愛して、味方になって、助けることは困難だと思います。軽蔑は愛の反対にあるものだと思います。確かに人は弱いところがあるかもしれません。だから、それをサポートするためにあなたがパートナーとして存在していることを確認すべきではないでしょうか。それが神様を中心とした結婚ではないかと思います。それでは、今日も聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 ルカの福音書19章1~10節
それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
ザアカイは嫌われ者だったでしょう
以前にも書きました様に、取税人もユダヤ人でしたが、ユダヤ人から税金を取り立てて、ローマに納める仕事をしていましたので、ユダヤ人からは裏切り者のように思われていて、ここでも人々から罪人と呼ばれています。その腹いせに、人々から高額な税金を取り立て、だまし取ったりもしていたのでしょう。ザアカイは取税人のかしらで金持ちだったと書いてあります。さぞかし、ユダヤ人の間では嫌われ者だったのではないでしょうか。
どうしてもイエスを見てみたい
そんな彼でしたが、人となった神様であるイエスの噂を聞いて、どんな方か見たいと思ったようです。でも、通りは人でいっぱいで見ることができません。それでも、彼はあきらめずに木に登ったとあります。嫌われ者の彼が人ごみの中に出て来るだけでもどれだけ勇気のいることだったでしょうか。しかも、木にまで登りました。何としてでもイエスを見たいという思いだったことが分かります。
神様が中心になった瞬間
そんな彼にイエスは目を留め、しかも名前を呼び掛け、「きょうは、あなたの家に泊まることにしてある」と言われました。たとえザアカイがどういう人であったとしても、このように神様を求める人を、神様は決して軽蔑されないことが分かります。ザアカイは喜んで、財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った物は、四倍にして返す」と言いました。この時、ザアカイは神様を中心にしたのだと思います。イエスは救いが来たと言われました。
神様は失われた人を捜して救うために来た
たとえそれまでどのような生活をしていたとしても、自分でも、また人の目からも修復不可能に見えたとしても、どんな人生のどん底にいたとしても、そこで神様を求め、神様を中心にすることは可能だと思います。神様はそのような私たちを決して咎めないで、軽蔑しないで、むしろ愛して、憐れんで、「失われた人を捜して救うために来た」と言ってくださいます。
この人もアブラハムの子です
「この人もアブラハムの子なのですから。」 私たち日本人のルーツもたどると、イスラエル民族、すなわち、アブラハムの子孫の影響を受けていたと考えることができるようです。私たちもザアカイのように、神様を中心とする喜びをいただけると思います。それは決してキリスト教徒になることではありません。ここでもイエスは一言もそのようなことは言っていません。今、この瞬間に神様を中心にすることだと思います。