人間関係が苦手という方へ

山にこもって生活できたらと思っていませんか

木曜日のテーマは「人間関係」です。皆さんの中には人間関係が苦手だと言う方もいらっしゃるかもしれません。山にこもって生活できたらいいのになんて思っていませんでしょうか。実は私は20歳くらいの頃、そんな風に思っていました。でも、今はそう思わないんです。私の中で何が変わったのでしょう。皆さんの参考になればと思います。

人に会うのは疲れますか

私は人と会うのは苦手でした。できれば人と会わないで過ごせたらいいのにと思っていました。なぜそう思っていたのでしょう。今、思い返してみると、人からどう思われるのか心配だったのかもしれません。自分に自信がなかったのかもしれません。人から変に思われないように気を張っているのは疲れますよね。だんだん人に会うのが億劫になったと思います。

人と会った後の後悔

人と会って、いろいろ話したりした後、何であんなこと言ってしまったんだろう、とか。どうして自分ばこうなんだとよく後悔もしていたように思います。情けない自分を知りたくない、見たくないと思っていたのかもしれませんね。確かに人と会えば、自分はどうしてこんな人間なんだろうと思うんじゃないでしょうか。私はもっと竹を割ったような、こんなことでくよくよしない人間になりたいと思っていましたが、人と会うといつもその正反対の自分の姿にがっかりしたものです。皆さんはいかがでしょうか。

自分に出会う

このように振り返ってみると、人間関係が苦手だったのは、実は自分を受け入れられていないことが原因だったと思います。確かに人は自分を映す鏡なんだと思います。人と会うと自分はこんな人間なんだと分かります。大切なことは、自分はこんなはずじゃないと言わずに、これが自分だと受け入れることだと思います。山にこもってしまったら、きっと自分はどういう人なのか分からなくなってしまうと思います。私たちはまず実際の自分に出会う必要があるのではないでしょうか。

成長するためには本当の自分と向き合うことが必要です

それはちょっと怖いかもしれませんね。こんなはずじゃないと思うかもしれません。でも、本当の自分と向き合う勇気を持ちましょう。それは人と会うことだと思います。目的は対人関係のハウツーではなく、どうしたら人間関係をうまくできるかということでもなく、自分を知り、自分を受け止め、成長するため。そうです。対人関係は自分の成長のための道場だったと思います。

神様は私に自分と向き合う勇気を与えてくれました

驚くべきことですが、私自身も向き合って来なかった自分を神様はよく知っておられるようです。神様は私よりも私のことを良く知っておられ、その上ですでに私を受け止めておられるということを知った時、私は自分では情けないと思っていても、そのままの自分と向き合う勇気を得たのだと思います。このような神様との関係を確立することが力になりました。

自分を受け止められるようになったら変わりました

そうやって、私は人と会って、情けない自分、こんなはずじゃないという自分と出会っても、神様を意識することによって、これが私なんだと受け止められるようになりました。竹を割ったような性格ではなく、くよくよと悩んでいる自分でもいい。それが私なんだと受け止められるようになりました。そんな自分をぎゅっと抱きしめて、大事にして、そして一歩ずつ前に進めば良いと思うようになりました。その時、人と会うのは恐れではなくなったと思います。

今、神様を中心にしましょう

どうぞこのような神様との関係を確立させてください。それは何かの宗教をやることではありません。今日、神様の前に静まって、「神様。」と祈って、神様中心の生活を始めることだと思います。神様との関係が対人関係にも大きく関係していると思います。それでは、今日も聖書の続きを読みましょう。神様に思いを向けてみてください。

新約聖書 ルカの福音書18章31~34節

さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

弟子たちは何一つわからなかった

人の子とは人となった神様のことで、イエス自身のことを指して言っていると思います。間もなく十字架につけられることを預言して言っていることは明らかだと思います。イエスは何度か十字架の死について、弟子たちに話したようですが、弟子たちは何一つわからなかったとあります。彼らには、このことばは隠されていて、理解できなかったとあります。そういうことがあるんだなあと思わされます。

文字通りの意味だということが分からないのでしょうか

言葉そのものが知らない外国語のようで分からないということではないでしょう。その言葉の意味が分からないということだと思いますが、その意味は文字通りの意味だと私は思いますが、弟子たちは何かのたとえか教えだとでも思ったのでしょうか。理解できなかったようです。でも、そのことが実際に起こった時、弟子たちもそれは文字通りの意味だったと理解したのではないでしょうか。

十字架に死んだ神様

人となった神様が、人間によってむち打たれ、殺される。考えてみれば、あり得ないことでしょうね。それはどんな教えなのかと考えれば、理解できません。そういう神様って、どういう神様なのでしょうか。でも、これが歴史上の事実だということです。私たちの方が考え方を変えなければならないということだと思います。天地万物を造られ、宇宙を支配しておられる神様。畏れ多い神様が人間となってこの地上に来てくださった。それだけではありません。人間によってむち打たれ、十字架について死ぬことを良しとしてくださった。これが神様のなさった事だということです。

私のために命を捨ててくださった神様

神様はこうやって私のために命まで捨ててくださいました。それほどの価値が、情けないと自分では思っているけど、自分にはあると神様は認めてくださっているということではないでしょうか。信じられないことですが、これは事実です。だから自分の思いではなく、この神様の思いを中心にして生きる。これが日本人の心だと私は思っています。