子供に神様を中心に生活することを教えるとは

眠る赤ちゃん

従おうとする心を育む

子供に従順な性質を身に付けさせることが大切だとお伝えいたしました。強制されてするのではなく、子供の良心に働きかけ、子供が自分からそうしようとする心を育むことが大切だと思います。それは子供に神様を中心とした生活を教えることであり、子供の幸せな人生のためにとても大切な教育だと思います。

懲らしめも必要

一度で身に付く訳ではありませんが、子供が言葉だけで従わない場合は懲らしめも必要だとお伝えいたしました。もし、親が一貫した態度で子供に指導するなら、子供は大人が考えるより早く従順な性質を身に付けるものだと思います。

子供が親を試す時が肝心

子供に「これはいけない。止めなさい。」という指示をすると、敢えて、その禁止された行動をして、親を試そうとすることがあると思います。それは反抗ではなく、その親の指示は本当なのかどうかを試しているのだと思います。その時に、見逃さないで、親が「いけない」と制止することが大切だと思います。それによって子供はその指示を正しく理解するようになると思います。

嘘は悪い事だと教える

また、子供に嘘をつくことは悪いことだから、してはいけないと教えることも大切だと思います。子供は大人が喜ぶと、ありもしない話をすることがあります。また、自分に都合の悪いことは正直に話さないということもあるでしょう。もちろん、その気持ちを理解し、受け入れてあげる必要もありますが、嘘をつかないこと、正直に話すことは正しいことであり、神様に喜ばれることだと教えると、子供はそうしようとするようになると思います。

友達に優しくすることは良い事だと教える

また、友達に優しくしてあげることは良い事だと教えることも大切だと思います。困っている友達がいるなら声をかけて、助けてあげること。それは神様に喜ばれることだと教え、そのように出来た時には、大いに褒めてあげると良いと思います。

感謝することは良い事だと教える

それから感謝することを教えたいですね。何をしても不平不満を言うような子供が多くなっていないでしょうか。足りないと文句を言うのではなく、満ち足りることを教えることは大事なことではないでしょうか。それは事なかれ主義でも、諦めでもありません。現状に満足せずに向上を目指すことは大事なことだと思います。しかし、それは他人や環境のせいにして不平不満を言うことではありません。

見えない神様の恵みを見る目

どんなに恵まれた環境にあるのか。そういうことに目が向けられるようになる心が大切ではないでしょうか。目に見えない神様の恵みを見ることができる。それが気高い日本人の心だと思います。そういう心は大きくなったらいつか持つことができるようになるのではなく、小さい内から育む親の心が大切ではないかと思います。

親が神様を中心に生きているのか

そのためには親自身がそのように生きているのかが問われると思います。どうぞ毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読みましょう。今日も聖書の続きを読みたいと思います。

新約聖書 ルカの福音書23章1~5節

そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」

するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない」と言った。

しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」と言った。

ローマの総督に訴える

当時、ユダヤは独立した国家として認められてはおらず、ローマによって統治されており、ポンテオ・ピラトが総督として管轄していました。ユダヤ議会は人を死刑にする権限を持っていませんでしたので、イエスをピラトのもとに連れて行き、そこで死刑判決をくだしてもらおうと考えたのだろうと思います。

偽りの訴え

イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と教え、「カイザルに税金を納めることを禁じ」たりはしていませんので、これは偽りの訴えであり、ローマ総督の同意を得ることを目的とした訴えであったと想像することができると思います。

イエスを有罪とする理由は何もなかった

しかし、ピラトは初めから、イエスは無罪だと考えていたのではないでしょうか。質問を1つしただけで、無罪と宣言しました。ローマ総督であるピラトは、ある程度、物事を客観的に見ていたのではないかと思います。また、祭司長、律法学者といったユダヤ人の体制側の人たちのようにイエスに対決的な思いは持っていなかったでしょう。客観的に、冷静に判断するなら、イエスを有罪とする理由は何も見出すことはできなかったということだと思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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