ネットで見ていると興味深い意見がいろいろあります。その中で、ある方が「人間関係は疲れたり悩んだりストレスを感じるほどの価値はない」と書いていて、「なるほど」と思いました。
どうでもいい訳ではないが
もちろん、その方もどうでもいい訳ではないと書いています。ただ、「実際僕には友達も恋人も仲間もいませんし、家族と言っても一応まだ生きているというだけでおよそ血の通った生身の人間関係といった類のものは皆無ですが普通に生きています。」と書いていらっしゃいます。
それを中心にしてはいけない
この方自身、人間関係に大変苦しまれた末に、この境地にたどり着いたということがブログ全体から伝わって来て、とても説得力があります。結局、私の言葉で言えば、人間関係を中心にしてはいけないということをこの方はおっしゃっているんだと思います。以下、この方の文章から一部をご紹介いたします。
大事だけど中心ではない
「当たり前ですが、人間関係は大事じゃないとか蔑ろにしていいって話ではありません。・・・今自分の目の前にいる人を大切にすることは自分の人生をよりよく生きていく上で大切なことだと思います。でも、そのために深く激しく悩んだり苦しんだりして自分のことを限界まで追い詰めてしまうほど他者の存在や人間関係を求める必要なんてない。本末転倒だというのが僕の考えです。」とおっしゃっています。
私の言っていることと重なるように思います
それは人間関係を中心にすれば本末転倒になる。神様を中心にして、人間関係を考えることが大切だという私の意見にも通じることではないでしょうか。人間関係は大切なこと。どうでもいいことではない。だからこそ、人間関係を中心にしないで、神様を中心に生きることが大切。そういうことではないでしょうか。
人が見えるようになる
さらにこの方は「人間関係に期待しないからこそ人を見極めることができる」とおっしゃっています。それは神様を中心にすれば、人がよく見えるようになるということと同じだと思います。この方もおっしゃっていますが、人間関係が中心になっているというのは、結局自分が中心になっているということだと思います。自分の事で頭がいっぱいであれば、とても相手を見る余裕はないと思います。これでは人間関係も悩むだけで、解決は見えてこないと思います。
一番の関心は自分?
私たちは皆、自分について大変関心を持っているようです。たとえば集合写真を見る時、まず自分を探すでしょう。それだけ私たちは自分に関心があるということだと思います。いつもいつも、自分自分。しかし、それが諸悪の根源になってしまいます。神様、神様。そして、人を助ける。意識して思いをそのように向けることが救いだと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、自分ではなく、神様に目を向けてみましょう。
新約聖書 ルカの福音書23章44~49節
そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」 こう言って、息を引き取られた。
この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
その時、世界は闇に包まれた
イエスの死に際し、昼間にも関わらず全地が暗くなり、太陽は光を失ったと記録されています。神殿の幕とは、聖所と神の箱が安置されている至聖所を隔てている荘厳な刺繍が施された幕のことを指していると思われますが、それが真っ二つに裂けたとあります。いずれも超自然的な出来事だろうと思います。
命を支配する神様
人は自分の命を自分で支配することはできませんが、イエスは人となった神様ですから、自分の命を支配していたのではないでしょうか。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って、自らその命を父なる神様にお渡しになったのだと私は思います。
ほんとうに、この人は正しい方であった
これらの出来事をつぶさに見ていたローマの百人隊長はイエスが正しい人であると言いました。十字架刑という死に際して、一点の汚点もこの方には見出すことがなかったのでしょう。そして、これらのすべてを目撃した人々がいたことがここには記されています。これは作り話ではなく、事実の記録だということを言っているのだと思います。
イエスは確かに人となった神様
歴史上、この世界に確かにイエスという人物は存在した。この方は人となった神様だという記録だと思います。この方に私たちは神様とはどのようなお方なのかを見ることができるのではないかと思います。この方の思いや願いを中心にして生きること。それが神様を中心とした生活だと思います。この方は全く自分のためには生きませんでした。ただ私たちのために生きたのです。