日本におけるキリスト教

ステンドグラス

日本はキリスト教をどう取り扱って来たのか

先週に引き続き、堀井憲一郎氏のコラムをご紹介して、日本人と日本文化について、特に日本はキリスト教をどう取り扱って来たのか考えてみたいと思います。今日、ご紹介するのは、「徳川以来、この国の政府がキリスト教を公式に『解禁』した事実はない」と題するコラムです。以下、堀井氏のコラムから引用し、私の考えを述べてみたいと思います。

明治政府もキリスト教を禁止していた

〝耶蘇教ハ今以ッテ我ガ政府ノ制禁スル所ニシテ、未ダコノ制禁ヲ廃シセシ事アラズ〟これが1875(明治8)日本政府の公式見解である。そして、このあとも日本政府は、キリスト教を認めるというお触れを出すことはない。何となく、なしくずし的に、認めていったばかりである。

政府の懸念

当時の政府としては〝日本人キリスト教信者〟が増えると、日本の秩序が保てなくなるという不安があった。(中略)1889年(明治22)には、大日本国憲法が公布される。その28条には「日本臣民は、安寧秩序を妨げず、および臣民たる義務に背かざる限りにおいて、信教の自由を有す」と信教の自由が掲げられた。

キリスト教「黙認」の過程

残念ながらキリスト教のまじめな信者であるかぎりは「日本の安寧秩序を乱し、ときに義務に背かざるを得ない」という場面は必ず出てくる。(キリスト教の主神を優先しなければならないから。)(中略)(日本政府はキリスト教を)積極的には認めていない。キリスト教国との付き合いのため、その体制を整えていく過程である。(中略)しかしこれ以上に大きく日本人キリスト教徒を増やしたくない、そのあたりが政府の本音であろう。

キリスト教布教に対する村民の叫び

1883年、和歌山に宣教師が入ると、黒江村では全戸主が寺へ集まり、邪教とは断じて接しないことを協約した。どこまでもキリスト教布教者は敵であり、日本国民の生活の安寧を妨げる存在だったのだ。(中略)いままで通り生きていこうとするのをなぜ邪魔するのだ、というのがキリスト教布教に対する村民の叫びである。(中略)キリスト教は、日本の共同体のなかへ入ることはできなかった。明治政府の「キリスト教を認めない方針」はあくまで、そういう民衆の気分をもとに、社会の安寧を目的としたものだったと言える。(堀井氏のコラムからの引用は以上。)

今でもキリスト教は歓迎されない

事実、キリスト教という宗教を日本に持ち込み、初詣に行かなくなったり、仏式の葬儀に出席しなかったりするようになれば、今でも日本人が大切にしてきた慣習が揺さぶられることになると思います。それはキリスト教という宗教を日本に持ち込もうとするからであり、イエスを人となった神様として受け入れる信仰とは本来関係のないことだと私は思っています。

神様を中心とした生活はキリスト教ではない

日本人としての優れた文化、慣習を大切にしながら、イエスを人となった神様として受け入れ、神様を中心とした生活をすることは可能であるし、それはむしろ日本人が太古の昔から大切にして来た信仰に他ならないと私は思っています。ユダヤ人がイエスをメシアとして受け入れてもキリスト教徒にはならないのと同じように、日本人もキリスト教徒になる必要はないと思います。大切なことは神様を中心とした生活をすることであり、それはむしろ日本社会の安寧秩序を造り出すものだと私は思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 ルカの福音書24章44~53節

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

イエスの弟子たちの末裔

これはよみがえったイエスが、弟子たちにその姿を現して言われた言葉です。「罪」とは神様ではなく自分が中心となった生き方のこと。「悔い改め」とは、中心を神様にすること。このイエスの弟子たちの末裔がエルサレムからはるばる東の果て、日本にまでやって来たと考えられるのです。秦氏と呼ばれる人たちです。

キリスト教徒になることではありません

日本人の文化、価値観、慣習、良識、常識は、この神様を中心とした生活によってもたらされたものだと私は思います。キリスト教が西欧社会に「キリストによる罪の赦しを得させる悔い改め」をもたらしたことも事実だと思いますが、それは宗教になってしまいました。日本文化は宗教としてのキリスト教はこれからも受け入れないだろうと私は思っています。でも、大切なことは神様を中心とした生活であり、キリスト教ではないと思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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