人の目が気になっても良い
今日は「人間関係の悩みのヒント」というサイトから「人の目・人の思惑が気になる」という記事をご紹介いたします。まず、共感したのは、「人の目が気になることは誰にでもある。人の目が気になってもいい、と思えたら」と書いてありました。本当にそうだと思いました。以下、サイトから抜粋して引用します。
それは良い事でもある
「人によく思われたい」「人に評価されたい」「人に好かれたい」というような思いは、誰の心の中にもあると思います。また、「人に悪く思われたくない」「人にバカにされたくない」「人に嫌われたくない」という思いも同様です。これらの思いがあることは悪いことだとは思いません。・・・また、「人の目」があるから、悪いことをしないように自分を律することもできるし、自分を向上させることもできるのだと思います。
その通りだと思います
人は一人で生きている訳ではないし、人の目を意識することは大切だということだと思います。その通りですね。人の目を全く気にしないというのは問題もあると思います。続いて、こう書いてあります。
しかし、それが問題になる場合もある
ただし、「人によく思われたい」「人に悪く思われたくない」というような思いのために、(自分にとって)よくないことをしてしまったり、イヤな思いをしてしまうのでは問題です。・・・たとえば、「見栄をはってしまう」ことがあります。自分をよく見せたいために、ムリをしたり、ムダなことをしたり、ウソをついたりしてしまいます。そのことで、必要以上に気を使い、時間やお金を使い、後悔や自己嫌悪に陥ってしまうこともあります。
意識し過ぎが問題でしょう
人の目を意識し過ぎるのは問題だということだと思います。・・・「意識しすぎ」だと気づいたら、ちょっと心の力を抜くことを考えてみてはどうでしょうか。また、「人に良く思われたらいいな」ぐらいの気もちで、とおっしゃっています。ポイントはちょうど良いバランスをどのように取ったら良いのかということではないでしょうか。
私は神様を中心にすることだと思います
あなたの評価は人によって全てが決まる訳ではありません。人の評価は関係ない、ということでもありませんが、全てでもないということです。しかも、人の評価は人それぞれだと思います。あなたの評価は多数決で決まることでもありません。私たちの全てを完全に公正に判断されるのは神様だと思います。
神様の評価こそ最終的な評価だと私は思います
対人関係において、人からの評価を恐れて、そのために人生を生きるのではなく、もっと積極的に人の益のために、人の励ましのために、人を助けるために、出来る最善を尽くして生きたら良いのではないでしょうか。それは人からの評価ではなく、神様に喜んでいただくことを動機とした人生です。その結果、人からも喜ばれることになるでしょう。そういう人生は幸せだと私は思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。神様に思いを向けましょう。
新約聖書 使徒の働き 5章12~16節
また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。
また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。
尊敬されたが、加わろうとはしない
イエスを人となった神様と信じ、単にユダヤ教の慣習に従った生活ではなく、神様を中心とした生き方をするようになった人々は全ての財産を共有にし、共同生活を始めました。そのような人々の生活は回りの人々から尊敬されていましたが、ほかの人々は誰もそこに加わろうとしなかったと書かれています。ちょっと違和感を感じたのかもしれません。
宗教的な集まりには良い面、悪い面、両面ある
それでも、そのような人はどんどん増えていったようです。神様による奇蹟も行われたと書かれています。私はこのような共同生活には良い面もあれば良くない面もあったと思います。
大切なことは神様を中心とすること
同じように、この2千年の歴史を振り返るなら、キリスト教や宗教もまた人間の集まりであり、そこには良い面もあり、悪い面もあったと思います。人間の営みとはいつの時代もそういうものだと思います。しかし、共同生活や何かの宗教団体の信者になること自体は目的ではありません。大切なことは神様を中心とした生き方をすることだと思います。
手段を目的にしてしまうことがないようにしましょう。形にとらわれないようにしましょう。神様を中心として生きるという本質を大切にしていただきたいと思います。