神武天皇とアブラハムの共通点

光

「古事記」「日本書紀」に見られる「旧約聖書」との共通点

「古事記」、「日本書紀」と「旧約聖書」の記述には多くの共通点があるようです。今日は坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」から、神武天皇とアブラハムの共通点についてご紹介いたします。

神武天皇とアブラハム

ユダヤ人の歴史は祖アブラハムから出発しており、日本の歴史は神武天皇から出発している。・・・両者ともそれぞれの民族の起源を神の啓示によって移住した伝説にさかのぼり、両者とも選ばれた民であり、約束の地があるとして移住したと考えられている。

聖書の説明によると、神がアブラハムにハランにある彼の家を去るよう命じ、カナンの地に家族と共に向かった時には、彼は七十五歳であった。アブラハムは全人類の父であるアダムの第十九代目の子孫であり、常に祝福された「偉大なる国家」の先祖になるよう神によって選ばれた。

神は「乳と蜜の流れる国」として描かれたカナンの地について、アブラハムにこう約束している。「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」と。

アブラハムはこの神の命令に従った。彼はカナンの地へ北から南に移動し、地方の統治者と縁を結び、その唯一神に祭壇を設け、彼が訪れた場所に新しい名前を付けたのだ。

日本民族の始祖である神武天皇は、『古事記』『日本書紀』によれば、神の助けによって、九州から日本の中央である大和平野へ兵をすすめた時、四十五歳であった。

神武天皇は、太陽の神であるアマテラスオオミカミの直系の子孫であり、地上を統治する最初の神、ニニギノミコトの祖孫である。神武天皇は山や河を進み、多くの地方を征し、種々の地名を変えた。大和の地を平定した後、神武天皇は都をそこに開き、日本最初の天皇となった。

神々が神武天皇の建国を助けたその国は、「豊葦原千五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)」「四方を青山によって囲まれている美地」であった。(本からの引用は以上です。)

古代日本にイスラエル系渡来人があった証拠

イザナギとイザナミの神話をはじめ、このほかにも「旧約聖書」と「古事記」「日本書紀」の記述にはよく似ている箇所が沢山あるようです。これらもまた偶然と考えるのは難しく、古代日本にはイスラエル系渡来人があったことを示す一つの証拠だと考えられます。日本人の信仰はイスラエル人の信仰、聖書の信仰と深い関係があるということだと思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。ここに日本人の信仰のルーツがあると思います。

新約聖書 使徒の働き 9章10~19節

さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名(みな)を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」

しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。

神様による不思議な出来事が続きます

天からの光を受け、イエスと出会ったサウロは三日の間、目が見えず、飲み食いもしないで過ごしました。そこにアナニヤという人が来て、サウロの上に手を置くと、目が見えるようになりました。サウロはイエスの弟子となるバプテスマを受けて、食事をして元気になりました。

神様からの超自然的な介入

これまでユダヤ教という宗教をやることが正しいことだと思って来たサウロにとって、その生き方を中心から改めることは、普通に考えるなら不可能に近いことだったのではないでしょうか。それは人生観が根底から覆るような事であり、このように神様からの超自然的な介入がなければとてもできないことだったのかもしれません。

神様を中心にして生きる

単に宗教的な生活をすることではなく、神様を中心とした生き方をするということは、そういうことを意味しているのかもしれません。今一度、宗教ではなく、これまでの単なる慣習でもなく、神様を中心にして生きるということについて考えてみていただきたいと思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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