人間関係の悩み相談

「人間関係の悩みのヒント」というサイトを見つけました

大きく「人づきあいの悩み」、「人間関係のトラブル」、「特定の相手との問題」、「人間関係を良くするためには」という4つの見出しがあり、「人づきあいの悩み」を開いてみると、「人づきあいが苦手」、「人と会話するのが苦手」など、21のテーマに分かれるといった具合に、かなりのボリュームで書かれています。どんなことが書いてあるのか、これから読んでみたいと思いますが、今日は最初のページを読んで印象に残った箇所を少しご紹介したいと思います。

「人づきあいが苦手」を開いてみると

人づきあいが苦手という人は、「人づきあいをイヤ/苦手/避けたいという気もちと、本当はいい人づきあいをしたいという気もちがあるのだと思います。」と書かれていました。もう少しご紹介します。このような箇所が印象に残りました。

「人を幸せにする」ことを考えてみる

望ましいのは人づきあいを愉しめることでしょう。(「人づきあいを愉しむ」ことについても今後考えてみようと思います。)人間関係の中で幸せになる方法を実践できたら、いちばんいいのではないでしょうか。それが「人を幸せにする」ことです。人を喜ばすことや、人の役に立つことや、人を幸せにすることを考え・実践できる人づきあいができればいいのです。

同感です

やはり、この方も「人を幸せにすること」をあげています。私も同感です。人付き合いが苦手である原因の一つは意識が自分に集中している場合があると思います。「人の幸せ」を考えることによって、意識が相手に向くようになると思います。ただし、気に入られることが目的にならないように注意が必要です。それでは、また自分に意識が向いてしまうと思います。

プラスしかない人生

ひたすら相手の幸せ、役に立つことに集中することだと思います。役に立てなくても良いのです。仮に何の役に立てなかったとしても、あなたはその人にとってゼロではありますが、マイナスではないと思います。何かちょっとでも役に立てれば、その分プラスですから、プラスしかない人生を生きることになると思います。

それは神様を中心としたライフスタイル

だいたい、この世知辛い世の中で、人の役に立つこと、人の幸せを考えている自分は素敵ではないでしょうか。それはたとえ相手がどういう人であったとしても関係ありません。あなたの喜びは相手のリアクションにかかっているのではなく、相手の幸せを考えているという姿そのものにあると私は思います。これこそ自分ではなく、また相手でもなく、神様を中心としたライフスタイルだと思います。

チャンスです

どうぞそれが自分の品性として身に付くようになるほどにやってみてください。身に付けば付くほどあなたの人生は喜びのある人生になって行くと思います。失敗しても自分を責める必要はありません。たとえ最悪であったとしてもゼロであって、マイナスではないことを思い起こしてください。人付き合いはあなたにプラスを与えるチャンスです。楽しんでいただければ良いと思います。

苦手を克服することではなく

この方も、こう書いています。〝人づきあいが苦手な人は、苦手を克服しようと考えるより、人づきあいの中で「愉しもう」「幸せになることをしよう」と考えたほうがいいのかもしれません。″私もその通りだと思います。愉しむためにはどうすればいいのか。私のコメントも参考になれば幸いです。それでは今日も聖書の続きを読んで、中心を自分ではなく神様にしましょう。

新約聖書 使徒の働き 1章12~26節

そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。

この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。

ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。

このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち、『血の地所』と呼ばれるようになった。) 実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』

また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』 ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

そこで、彼らは、バルサバと呼ばれる別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちのどちらをお選びになるか、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きましたから。」 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

脱落したイスカリオテのユダ

イスカリオテのユダを除く11人の使徒たちと120名ほどの弟子たちは、イエスの言葉に従って、エルサレムに留まりました。ここでイエスを裏切ったイスカリオテのユダは、不正を行い、自分のところへ行くために脱落して行ったと書かれています。イスカリオテのユダは神様を中心とした生活を世界に示すために選ばれたにも関わらず、自分を中心にして脱落してしまったということだと思います。

12という数

旧約聖書の詩篇にも「その職は、ほかの人に取らせよ」とあるので、後任を選びましょうとペテロは言ったのでしょう。120名の弟子たちの中心となる使徒は11名ではなく、12名であるべきだということなのかもしれません。それはイスラエルの12部族を象徴しており、神様の国を象徴する数字なのかもしれません。

ご利益、宗教ではなく、ライフスタイル

こうしてイスラエルの首都エルサレムから神様の国の働きが使徒たち、弟子たちによって引き継がれていくことになります。日本人の信仰、文化、伝統、価値観はこの働きの延長線上にあると考えられます。今、日本人として神様を中心とした生活を見直しましょう。それはご利益とか宗教ではなく、ライフスタイルであることを知っていただきたいと思います。