「人間関係の悩みのヒント」の「子育てについて」から、「育児は自育のいい機会」という記事をご紹介いたします。
育児は自育のいい機会
親が(子供に)いい見本を見せることが大切です。人にやさしくする、人の話をよく聞く、人の悪口を言わない、人と比較しない、素直に喜ぶ、希望をもって生きる、目標をもって努力する、人の役に立つことをする、・・・。親も未熟な人間であることは、よくわかっています。でも、「子育て」の中でなら難しいこともできるのではないか、とも思うのです。
子供の前では意識しやすい
自分の子供が相手なら、子供の話をよく聞き、やさしく接することはできるでしょう。そしたら、それを他の人にも試すこともできるでしょう。人の悪口を言わない、人と比較しないなどは、ふだんならついしてしまうでしょうが、子供の将来を考えた上でなら、子供の前ではしないように心がけることができるのではないでしょうか。子供に「そういうことはしないほうがいいよ」とよく言っていれば、子供の前ではできなくなるでしょう。
子供のためなら
素直に喜ぶことは、子供といっしょのほうがうまくできるでしょう。夢や目標や希望をもって生きることが子供のいい見本になると考えれば、ひとりよりも実践しやすいでしょう。人の役に立つ喜びは、子供の喜ぶ姿を見れば実感できるでしょう。それを他の人に広げることも考えられるのではないでしょうか。「子供の(幸せの)ため」を考えれば、できることがけっこうあるのではないでしょうか。
それは自分の幸せ
このようなことは、実際には自分の幸せのためになることです。子供に教えることで、いちばん勉強になるのは親です。「子育て」を「自育のいい機会」と考えれば、子育てに対する心の姿勢も変わるでしょうし、ひとりでやるよりも自分を育てることができるのではないかと思います。それは、自分の幸せにつながることです。(サイトからの引用は以上です。)
それでも親として不完全さを感じる時
それでも親として不完全さを感じてしまう時はどうしたら良いのでしょうか。自信を失って、親を辞めたくなることもあるのではないでしょうか。私はそんな時、いつもイエスの十字架のことを思います。それは不完全な私たちのための犠牲です。素直に自分の足りなさを認め、そのために命を捨ててくださった神様の愛を噛みしめます。
不完全を認めるという模範
親も完全ではないことを子供の前に認めて、時には子供に謝ってあげることも親が子供に示すことができる姿ではないでしょうか。自分の間違いや弱さを素直に認めて謝る姿は子供に謙遜を教えるチャンスになると思います。それは親もまた神様を中心にして生きている姿を示すことになると思います。へりくだることは大切なことだと思います。
それでは今日も神様の前にへりくだって、聖書の続きを読みましょう。
新約聖書 使徒の働き 13章44~52節
次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。
「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。
なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」
異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。
ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
ユダヤ人との対立
パウロはピシデヤのアンテオケという所で、安息日にユダヤ人の会堂に集まった人々に語りました。そこにはユダヤ人だけでなく、神を敬う異邦人も集まっていました。パウロはイスラエルの歴史について、旧約聖書からイエスがメシヤであるという話をしましたが、ユダヤ人たちはこれを受け入れずにパウロとバルナバに敵対しました。
パウロの確信
『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。』という言葉は旧約聖書のイザヤ書にある「わたしはあなたを諸国の民の光とし、」という言葉ですが、パウロは旧約聖書の言葉や反抗するユダヤ人の状況などから自分の役割はユダヤ人ではなく、異邦人だと確信したのではないでしょうか。
大切なことは確信
本来、「諸国の民」の中にはユダヤ人も含まれると思いますから、この同じ箇所を読んでユダヤ人のために働くという確信を与えられる人もいるかもしれません。それは何が正しい聖書解釈なのかというよりも、神様から一人ひとりに与えられる確信だと思います。
大切なことは神様を中心にすること
私たちはそれぞれに神様からの役割があると思います。一人が全てを行うのではなく、一人ひとり確信するところに従って、神様の働きを担うことによって、神様の全体的な働きは進められるのではないでしょうか。自分と違うからと言って批判するのではなく、神様のためにしているのであれば、全て必要な働きだと思います。