昨日に引き続き、今日もそれぞれの宗教の「神」に相当する言葉から、宗教は違っても神様は同じであるということについて、「究極の調和を目指して」というウェブサイトの記事からご紹介いたします。
新約聖書の「神」
新約聖書はギリシヤ語で書かれていますが、「セオース」という語が使われています。これは普通名詞で、一般的に使われる語であり、日本語の「神」に相当します。ヘブライ語の「エロヒーム」に相当する語であり、創造主を表すと同時に、天使や預言者に対しても使われます。
新約聖書の「主」
ギリシヤ語の「キュリオス」という語が使われています。ヘブライ語の「アドナイ」に相当する語であり、広く目上の人に使われ、神様を呼ぶ言葉としても使われています。新約聖書にはヘブライ語の「ヤーウェ」という語は使われていません。
新約聖書の「父」
イエスは神様を「父」と呼ばれ、弟子たちにもそう呼ぶように教えられました。ギリシヤ語では「パテル」、ヘブライ語では「アバ」です。これらはみな普通名詞であり、固有名詞ではありません。ちなみに「御霊」はギリシヤ語では「プニューマ」、ヘブライ語では「ルーア」。どちらも「霊」を表す普通名詞です。
イスラム教の神
イスラム教の「アッラー」という神名はムハンマドやイスラム教が生まれる以前からアラビア地方で信じられていた神であり、「神」を表す普通名詞だそうです。やがて、家の神も、部族の神も指して使うようになり、唯一最高神の名と言われるようになったそうです。
日本神道の神
古事記によれば、最初の神様の名前は「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」、「高御産巣日神(たかみむすびのかみ」、「神産巣日神(かみむすびのかみ)」とあります。「天之御中主神」は「天の真ん中におわす造物主」の意味であり、「高御産巣日神」も「神産巣日神」も「天地万物を生み出す(結ぶ)神」という意味ですから、固有名詞というより、象徴的な普通名詞だと言うことができると思います。
仏教の神
一口に仏教と言っても、その中身は各宗派が余りにも違っていて全部を取り上げることが出来ませんが、ひろさちや監修「仏教のことば早わかり事典」によれば、密教では宇宙の万物は大日如来の現れであると説き、この世に存在するものは、すべて大日如来の智(智恵、智徳)と理(慈悲)の現れであるという。大日如来という言葉も、神と同じ象徴的な普通名詞と言えると思います。
結論(究極の調和と題して)
これまで学んできた歴史上の色々な宗教や思想は、それぞれの特色ある「神」、「仏」の名を絶対化して、それ以外を排除する傾向がありました。・・・しかし、違った名で表現されていても、それは名を持たない究極的な霊的絶対者がご自身を啓示したものと考えられます。したがって、自分の信じている神の名を絶対化して他の名を否定したり、排除したりする態度は避ける方が良いでしょう。皆それぞれに教えられた神や仏の名を呼んで、本源的なお方を求めているのですから、お互いにそれを尊重する必要があります、とこのウェブサイトの著者は結んでいます。
私は全くその通りだと思います。大切なことは議論ではなく、ひたすら神様を中心として生きることではないでしょうか。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。神様を知る上で、聖書も大変参考になる書だと私は思います。
新約聖書 使徒の働き 15章12~21節
すると、全会衆は沈黙してしまった。そして、バルナバとパウロが、彼らを通して神が異邦人の間で行われたしるしと不思議なわざについて話すのに、耳を傾けた。ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。
「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名(みな)をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。
『この後、わたしは帰って来て、
倒れたダビデの幕屋を建て直す。
すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、
それを元どおりにする。
それは、残った人々、すなわち、
わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、
主を求めるようになるためである。
大昔からこれらのことを知らせておられる主が、
こう言われる。』
そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」
異邦人もユダヤ人のようになるべきなのか
この問題に最終決着がつきました。その必要はないという結論です。もちろん、それは人間が決めることでもありませんが、エルサレムにいるイエスの弟子たちのグループはそういう結論に達したということだと思います。基本的には現在のキリスト教会もこの考えの上に立っていると思います。
同じ問題はないか
ところが、その後の歴史の中で、今度は異邦人のキリスト教会の文化をユダヤ人をはじめ、全ての人々に押しつけるようになっているとすれば、それはまったく同じ問題だと思います。それがキリスト教だということであれば、それはそうかもしれませんが、そうであれば、大切なことはキリスト教ではなく、神様を中心にして生きることだという本質を見失わないようにしなければならないと思います。