メシアニック・ジューの歴史、神学、哲学から学ぶ

自身がメシアニック・ジューであるアーノルド・フルクテンバウム著「ヘブル的キリスト教入門」という本を今、興味深く読んでいます。いくつか新しい発見がありましたので、これまでの私の間違いを修正しつつご紹介いたします。

ユダヤ人とは誰か

日本人の場合であれば、日本国籍を持つ人が日本人ですが、ユダヤ人の場合はそれほど単純ではありません。イスラエル国籍を持つ人以外にも、自分はユダヤ人だと考える人がいるからです。私は「ユダヤ人」とは人種や国籍ではなく「ユダヤ教徒」のことではないかと考えていましたが、ユダヤ教徒でなくてもユダヤ人だと自認する人もいるようです。

定まった定義はない

現在、「ユダヤ人の母親から生まれた人、またはユダヤ教に改宗を認められた人」というのが、イスラエルの帰還法(ユダヤ人と認め、国籍を与える法律)に規定されたユダヤ人だそうですが、それもまた決着に至った定義とは言えないというのが現状のようです。

聖書による定義

フルクテンバウム博士はユダヤ人の定義を聖書に求めれば明白であり、それはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫だと、聖書箇所をいくつもあげて説明しています。それは宗教によらず、居住地にもよらないと言っています。

父方の血筋による

それでは、ユダヤ人と異邦人の間に生まれた子供はどうなるのかという問題がありますが、ユダヤ教では母親の血筋によって決まると教えています。しかし、聖書では父方の血筋によると、これも聖書箇所を何箇所もあげてフルクテンバウム博士は説明しています。

新約聖書のテモテはユダヤ人なのか?

「使徒の働き」の16章1~3節に出て来るテモテの場合はどう理解すべきなのでしょうか。彼の父親はギリシヤ人で母親はユダヤ人でした。パウロはその地方にいるユダヤ人の手前、テモテに割礼を受けさせたとあります。彼の父がギリシヤ人だと、みなが知っていたからだと書いてあります。

ユダヤ人として生きることを選ぶ

聖書のユダヤ人の定義から解釈するなら、テモテはユダヤ人とみなされてはいなかったということだと思います。評判の良い人であったとありますが、割礼は受けていませんでした。しかし、母親からユダヤ人の血を受け継いでいることは事実で、割礼を受けて、ユダヤ人として生きることを選ぶことが出来たということだとフルクテンバウム博士は解説しています。

なぜユダヤ人になることを選んだのか

テモテは割礼を受けずに、そのまま異邦人として生きる道もあった訳ですが、パウロはあえて割礼を受けさせ、テモテをユダヤ人として生きるようにしたのは何故だったのでしょうか。「その地方にいるユダヤ人の手前」と、その理由が記されていますが、聖書について教え、メシヤについて教え、神様を中心として生きる生き方について教えるにあたり、異邦人のままのテモテがユダヤ人に対して教えることは困難だとパウロは考えたのではないでしょうか。

ユダヤ人から学ぶ

神様はユダヤ人を通して異邦人を祝福するのであって、異邦人を通してユダヤ人を祝福する訳ではないということではないでしょうか。私たちは異邦人キリスト教会の考えではなく、神様を中心として生きるユダヤ人(メシアニック・ジュー)の話に耳を傾けるべきではないでしょうか。また、日本人の信仰と文化の中にユダヤ人の信仰が受け継がれているとすれば、西欧キリスト教会の伝統や聖書解釈ではなく、日本人としてイエスの教えに耳を傾けることが大切ではないかと思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 16章19~23節

彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。

「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」

群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。

もうける望みがなくなって腹を立てた

占いによって主人たちに多くの利益を得させていた女奴隷でしたが、パウロによって占いの霊が追い出されてしまい、占いが出来なくなってしまったのでしょう。主人たちは、もうける望みがなくなったので、腹を立ててパウロとシラスを訴えました。

正しいことを選ぶのか、目先の損得を選ぶのか

神様を中心にして正しく生きることは正しいことだと思います。それこそが本当の幸いだと思います。人を破滅に導くような霊を追い出すことは正しいことだと思います。ところが、それによって利益を得ていた人たちは喜ばなかったようです。

尊厳と喜びある生き方

他人のことではありません。自分の中にもそんな思いはないでしょうか。しかし、目先の損得ではなく、本当の幸いを求めるべきではないでしょうか。正しく生きることで、損と見えることがあったとしても、正しく生きるという尊厳と喜びには代えられないと思います。日本人にはそれが良く分かるのではないでしょうか。神様を中心にするとは、そういうことだと思います。