「日本人」のルーツ

「日本人」はどこから来たのか

世界中の民族や文化について研究されている桃山学院大学名誉教授の沖浦和光さんという方がこのように語っていらっしゃる記事がありました。

純粋かつ一系(ひとつの流れ)の日本民族というものは存在しません

歴史を遡っていくと、私たち(日本人)はいくつかの異なった民族に分かれます。・・・つまり、私たちの言う「日本人」とは、いくつかの異なる系譜をもった民族集団が、複雑にからみあい混じりあっており、決して「日本人」というひとつの系譜にはまとめられない。同様に、日本文化といわれるものも、渡来してきた民族集団がそれぞれ持ち込んだものが混じり合い、あるいは日本の風土に合わせて変化してきたものなのです。

先住民を征服した人々

日本列島の最初の住民は、数万年以上も前にやってきた人たちです。あえて言うなら、その末裔である縄文人こそ、私たち日本人の直接の祖先なのです。縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。しかし実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた侵入者(インベーダー)でした。

「騎馬民族征服王朝」説

戦後、・・・学問研究の自由が保障され、戦争中に発言を封じられていた研究者たちが次々と研究の成果を発表しました。そのうちのひとつが考古学者・江上波夫が発表した<騎馬民族征服王朝>論で、ヤマト王朝を打ちたてた天孫族は、2,3世紀ごろに東北アジアから朝鮮半島に来た騎馬民族が、4~5世紀に日本列島に渡ってきたものであるという主張です。これは天津神の子孫と称してきた天皇家の民族的出自を明らかにするものとして、大きな波紋を投げかけました。

国家や国民という概念は本来の民族とは別のもの

「自分たちの国や民族は特別なのだ」という発想から、他国や他民族への抑圧や差別が生まれます。国家・国民とは、人為的な政治的枠組による「国籍」概念にすぎません。そして「国籍」問題は、民族形成の歴史的過程論と同じ次元で論じることはできません。国家や国民という概念は、現在、力をもっている者がつくった政治的な構築物であり、本来の民族とは別のものであるということです。

日本という国がどのように成り立ってきたかを学ぶこと

私たちは、権力をもった者が創り上げた枠組みのなかに組み込まれ、支配体制に都合のよいようにつくられた歴史を学ばされているんです。まずそのことを知り、日本という国がどのように成り立ってきたかを学ぶことが重要です。それが真の歴史教育であり、人権教育の第一歩だと私は考えています。(サイトからの引用は以上です。)

征服民族はイスラエル系渡来人ではないか

これまで、このブログでお伝えして来た内容と概ね一致していると思います。私も日本民族は決して単一民族ではないと思います。ただ、縄文人は先住民ではありますが、だから縄文人こそが日本人の直接の祖先とは言えないと思います。また、この方がおっしゃる先住民を征服した人々の中にはイスラエル系渡来人が多く含まれていたと私は考えていますが、彼らもまた現在の日本人の祖先の一つであり、しかも日本の文化に大きな影響を与えた人々であると私は考えています。

ユダヤ人もその一つ

ご存知の方も多いと思いますが、日本人の祖先はユダヤ人だとする「日ユ同祖論」という考えがあります。私は、日本民族のすべてがユダヤ人だとは言えないと思いますが、日本人の成り立ちと文化にユダヤ人は大きな影響を与えたと考えています。

民族主義ではなく、神様の使命を果たすこと

この方も言っているように、だから日本民族は優れた民族だと主張することは正しいことではないと私も思います。それは神様から特別な使命を与えられたと考えるべきで、他民族を差別するためではなく、その使命を果たして世界に貢献することが求められていると考えることが大切だと私は思います。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 16章16~18節

私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。

幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名(みな)によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

占いの霊

ここには「占いの霊」という言葉が出てきます。皆さんは占いが好きでしょうか。将来のことや、どうしたら良い運勢を引き寄せることができるかということに多くの人が関心を持つのではないでしょうか。そのような思いは今も昔も変わらないのでしょう。占いはお金儲けに利用されていたようです。

それは悪い霊ではないか

しかし、占いにはまると、自分の理性で主体的に、責任を持って判断することが出来なくなってしまうと思います。それは正しい生き方ではないと私は思います。そのように考えると「占いの霊」とは、神様から来る良い霊ではなく、悪い霊ではないかという気がします。

悪い霊と関わらないように

私はそのような霊の存在というものはあると思っています。この霊もパウロたちが「いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たち」だと分かっているようです。だから、占いはある意味で当たるのだと思います。全く当たらなければ、誰も相手にしなくなると思いますが、当たるのではまる人がいるのだと思います。それが問題だと思います。

神様を中心にして生きる

神様を中心にして生きるという観点から考えるなら、占いは私たちの自己中心の思いに働きかけていると言えると思います。私は占いに頼るのではなく、良心を働かせて、神様を中心にして正しく生きることが大切だと思います。そのように生きる人に神様の良い霊が働くのだと思います。