日本人の宗教観について、国際比較調査のデータに基づく分析結果(「日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか」)を見つけましたのでご紹介します。これまで、このブログでもお伝えしてきた内容を裏付ける結果になっていると思います。
日本人の宗教心の推移
まず、日本人の宗教心は、近年、高まっていきつつあるのだろうか、それとも衰えていきつつあるのだろうか。これについて、5年おきに同じ設問の意識調査を長期的に継続実施している統計数理研究所の調査結果を見てみよう。
結果は、「信仰や信心をもっている」はほぼ3割前後、「宗教的な心は大切」はこれを大きく上回る7割前後であり、両方とも、ほぼ横ばいか、やや低下気味の推移といえよう。大きな変化が起っているようには見えない。
無宗教だが、宗教心は大切という結果
結果をまとめると、「信仰や信心をもっている」より「もっていない」人が多い、すなわち無宗教の人が多いにもかかわらず、宗教心は大切にするのがどうやら日本人の不変の考え方のようである。
特殊な日本人の宗教心
こうした日本人の考え方は諸外国と比較して特殊なのだろうか、それともよくあるパターンなのであろうか。
無宗教の者が少ないイタリアやインドのような国では宗教心は大切だと考えているし、逆に、中国の北京や上海、あるいは欧米の中ではオーストラリアやオランダのような無宗教の者が多い国や地域では、宗教心もそれほど大切とは思われていない。
これが世界標準の宗教に関する枠組みである。ところが、日本はかなり変わっている。無宗教の者が多い割には、宗教心を大切にする者がやけに多いのである。日本人は宗教を捉えるフレームワーク自体が他国と異なっているともいえる。
これまでのように国際比較調査のデータで日本とその他の国の意識の差の大きさを見てくると、おそらく、日本人の宗教的感覚は世界の中でとても奇妙と思われているはずだと理解できる。しかし、日本人からすれば、世界各国人の宗教観の方が奇妙である。
神の存在について親族や仲間の皆がそうだと言っているからといってストレートに信じている方が変なのではなかろうか。かといって反対に、一部の先進国のように神は存在していないと断定するのも大人気ない。存在を証明できないだけでなく非存在も証明できないのだから無理に存在しないと断定することもないのである。
超越的なものへの畏れを抱きながら、宗教心を忘れず、さまざまな宗教を信じる者どうしが(宗教を信じない者も含めて)、教義を相互にたたかわせるのではなく、相互の宗教精神そのものに対して敬意を払いながら、聖徳太子が言ったように「和をもって尊しとなす」の方針で付き合っていくことが重要だと日本人は考えているのではなかろうか。
こうした宗教的態度は、一朝一夕で形成されたものではなく、日本の長い歴史の中で繰り返された生活の知恵の蓄積によって獲得されたものだと信じる。そうであるならば、奇妙とも思える日本人の宗教的態度が世界各民族の宗教対立の融和に、かえって役立つと考えてもよいのではなかろうか。(サイトからの引用は以上です。)
特定の宗教ではなく、神様を中心にして生きる
いかがでしたでしょうか。これまで、このブログでも特定の宗教の信者になることではなく、(もちろん、なっても良いと思いますが、)毎日の生活の中で、神様を意識し、自己中心ではなく、神様の前に正しく生きること、それが本人にとっても、周りの人たちにとっても、最終的には全世界の人々にとっても幸いな人生や社会を作ることになると私は思っていますが、それは日本人にとって自然なことだと言えるということだと思います。
まず自分から
それは社会運動ではありません。まず自分がそのように生き、そのような生き方を人々に示すこと。それだけのことだと私は思っています。今日ご紹介したサイトに寄せられたコメントにまた大変興味深いものがありましたので、来週ご紹介したいと思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書には神様を中心にして生きた人々の記録が記されています。キリスト教の教典としてではなく、私たちが神様を中心にして生きる上で大変参考になると思います。
新約聖書 使徒の働き 17章22~25節
そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。
そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
人は誰でも神様を知っている
人間は誰に教えられなくても神様を知っていると思います。人間が他の動物と決定的に違うのは、人間だけが神様を拝むことだと思います。しかし、神様について必ずしも正しい知識がないので、迷っている部分があることも事実だと思います。
神様は天地の主
パウロはアテネの人たちに神様について語りました。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」 全くその通りだと思います。
神様がすべての人を支えている
「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」 それが神様だと思います。
これが日本人の信仰
それは何か特定の宗教の信者になることを意味していないと思います。太古の昔に、日本にはこのことがすでに伝えられ、このような信仰心を土台に日本人が形成されていったので、今日のような日本人の宗教心が築かれたのだと私は思います。
日本人の心
神様を中心にして生きる。これが日本人の心であり、世界に平和をもたらす鍵になると私は思います。神様を中心にしましょう。