人間関係は自分を映す鏡

鏡を見る男性

私たちは人間関係の中で自分とはどういう人なのかを知ることができるという意味で、人間関係は自分を映す鏡だと言うことができると思います。

人の意見で決めない

ただ、人からどのように思われているかということで、自分を決めない方が良いと思います。確かにそれは一人の意見であり、自分を知るための一つの参考にしたら良いと思いますが、それはあくまでもその人の見方に過ぎず、必ずしも正しい客観的な判断とは言えないと思います。その人のフィルターを通して見た姿であって、その意見はゆがんだ鏡に映った自分である可能性が大いにあると思います。それを自分だと信じる必要はないと思います。

自分を映す鏡とはどういうことなのか

それでは人間関係は自分を映す鏡だというのはどういうことでしょうか。それは人間関係の中で自分の反応というものを自分で知るということです。自分はどういう言葉を嬉しいと感じるのか。どんな言葉に腹が立つのか。また、どんな言葉にがっかりするのか。それは人間関係、対人関係の中で初めて分かることではないかと思います。

自分の思い込み

実際に鏡に自分を映して見ると、自分はこんな顔をしていたのかと驚くことがあると思います。または写真やビデオに写っている自分を見て、こんなはずはないと思ったことはありませんでしょうか。意外と自分の姿は見えないので、きっとこうに違いないと思い込んでいる可能性があると思います。

客観的に自分を知る

客観的に自分を知ることは簡単ではありませんが、大切なことだと思います。私は人間関係、対人関係の中で自分を知ることが大切だと思います。そこには今まで自分も知らなかった自分との出会いがあると思います。初めはその自分を受け入れられないということもあるかもしれません。でも、成長は自分を受け入れるところからしか始まらないと思います。

本当の自分を受け入れる

こんな些細なことで腹を立てる自分。人のせいにするのは簡単ですが、そういう自分を受け入れるところからしか自分の成長はないと思います。全てを周りのせい、人のせいにして、自分はそのままでいたいと思いますか。それとも自分の今の本当の姿を受け入れて、成長を目指したいと思いますか。もちろん、悪いのは全部自分ということでもないでしょう。周りも皆不完全だと思います。でも、人のせいにしていれば、自分は成長できないと思います。

神様を中心にして生きる

過去も未来も、この世界は全て神様の力が及んでいます。目には見えませんが、この神様を見上げて、自分を受け入れて、成長し続けること。それは神様を中心とした生き方だと私は思います。そこに本当の生きる喜びと平安があることを実感しています。

毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読みましょう

それでは今日も見えない神様に思いを向けて、聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きた人々の記録です。キリスト教の教典としてではなく、神様に思いを向け、神様を中心として生きる参考にしてみてください。

新約聖書 使徒の働き 19章21~22節

これらのことが一段落すると、パウロは御霊(みたま)の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。

そこで、自分に仕えている者の中からテモテとエラストのふたりをマケドニヤに送り出したが、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまっていた。

御霊の示し

御霊とは神様の霊のことでしょう。パウロはこれからの計画を神様の霊に示されたということだと思います。それはどういうことでしょうか。私自身の経験から言えば、そういうことはあるだろうと思います。

思いが与えられる

パウロの場合、具体的にどのように示されたのか書かれていませんので分かりません。神様の声が聞こえたのでしょうか。私の経験から言うなら、まず思いが与えられるように思います。何をするにしても、「何かをしたい」という思いはとても大事なことではないかと思います。

神からの思いか、自分の思いなのか

しかし、その思いは神様から来ているのか、それとも単なる自分の思いなのか、それを見極める必要があると思います。まず、それは神様の願い、思いと一致するものでしょうか。一致しないものであれば神様から来ている思いではなく、単なる自分の思いでしょう。

神様のためにしたいのか

神様を中心にして生きようとしている人たちと話してみることも良い事だと思います。それによって、それを自分は神様のためにしたいと思っているのか、単に自分の願いなのかはっきりしてくると思います。

幅もある

それでも完全に神様の思いを知るということはできないかもしれません。また、神様の思いとはそれほど限定されたものではなく、いくらかの幅もあるのではないかと思います。これでなければいけないというものではなく、これでもいいし、これでも良いというものだと私は思います。神様のためなら、どちらをしても良いのではないでしょうか。

一歩踏み出すと分かることもある

そのように吟味する中で、自分の中で間違いないという確信を持つなら、信仰を持って進むことだと思います。そうすれば、それが神様から出ていたものであるかどうかはっきりしてくると思います。違っていたと思うなら、改めれば良いと思います。

大切なことは信仰と確信

私自身、今日まで神様を見上げながら、そのように歩んで来ました。他の人生もあったと思います。でも、これで良かったと思っています。大切なことは、神様のために、信仰と確信を持って歩んできたことだと思っています。これからもそうだと思っています。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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