秦氏は景教徒だったのか
秦氏の風俗、風習、文化を調べてみるとき、そこに古代東方キリスト教徒やユダヤ人に見られる特徴を見ることができると多くの人々が指摘しています。景教(ネストリウス派キリスト教)の研究では世界的な権威である佐伯好郎博士は、それは秦氏が景教徒だったからだと言っています。以下、久保有政著「日本の中のユダヤ文化」から抜粋してお伝えします。
キリスト教国から来た秦氏
秦氏の故郷は、中央アジアの「弓月」という国だった。・・・佐伯好郎教授によれば、それは小国とはいえ、早くからキリスト教国となっていた。・・・中国の皇帝たちは周囲の征服した多くの民族を使役し、次々とあの「万里の長城」の建設にあたらせた。・・・その苦役に耐えかねて、多くの人々が朝鮮半島や日本に逃げてきた。・・・弓月国の人々も・・・満州を経て朝鮮半島に逃れた。朝鮮半島でも彼らは苦境に追い込まれたが、それを助け保護してくれたのが、日本の天皇だった。こうやって日本にやってきたのが、秦氏である。・・・日本の天皇にとって、秦氏の技術力や文明は魅力だった。秦氏にとっても、日本は別天地、安住の地と思えた。・・・秦氏は天皇に感謝し、よく仕えた。
景教とは何か
「景教」とは、昔、中国やモンゴルで栄えた東方キリスト教の一派である。・・・景教徒は635年に、中国皇帝に公式訪問して、布教許可をもらっている。その後781年に、中国の西安に有名な「大秦景教流行中国碑」が建てられている。(本からの抜粋はここまで)
つまり、景教と呼ばれるキリスト教の一派がこの年代までに中国西安まで伝えられていたことは歴史的な事実だと言うことだと思います。
秦氏は原始キリスト教徒だったのではないか
続いて、飛鳥昭雄・三神たける著「失われたイエスの12使徒『八咫烏』の謎」から抜粋します。
佐伯好郎氏の秦氏論には、大きく分けて前期と後期がある。前期においては、秦氏が景教徒であったことを強調しているのだが、後期においては、それがトーンダウンした感がある。そして、最後には秦氏が景教徒であったという説を破棄しているのだ。
その理由は年代矛盾にある。景教がネストリウス派だとすると、東方への伝道が開始されるきっかけとなったカルケドン公会議の異端判決は451年。このとき、秦氏はすでに朝鮮半島に住んでおり、しかも、かなりの数が日本に渡来していた。秦氏の故郷が弓月王国や西アジアにあったとしても、日本にいる秦氏が景教徒になる時間がない。後に景教が伝来して、秦氏の一部が改宗したとしても、一族としての秦氏=ユダヤ人景教徒説は成立しえないのだ。
しかし、景教徒ではなかったからといって、秦氏の文化がキリスト教の影響を受けている可能性までは否定できない。・・・景教以外のキリスト教を信じていたのかもしれない。佐伯氏は、もっと時代を遡り、秦氏はイエス・キリスト直系の原始キリスト教徒ではないかと推理した。(本からの抜粋はここまで)
秦氏はメシアニック・ジューだったのではないか
しかし、メシアニック・ジュー(イエスをメシヤと受け入れるユダヤ人)の歴史を学んでみると、秦氏はイエス・キリスト直系の原始キリスト教徒とは簡単に一言で言えない状況があるように思えます。確かにイエス・キリスト直系の弟子たちはメシアニック・ジューでしたが、アーノルド・フルクテンバウム博士(ご自身もメシアニック・ジュー)の本を見ると、その歴史は複雑で、イエス・キリスト直系の原始キリスト教という一つのグループが日本まで来たと考えることはできないように思えます。この点については来週詳しくお伝えしたいと思います。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう
聖書は神様を中心として生きた人々の記録であり、秦氏の信仰のルーツであり、日本人の信仰のルーツだと思います。キリスト教という宗教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心にして生きる上で大変参考になる記録だと私は思っています。毎日時間を決めて、神様に思いを向けて祈り、聖書を読んでいただきたいと思います。
新約聖書 使徒の働き 20章13~16節
さて、私たちは先に船に乗り込んで、アソスに向けて出帆した。そしてアソスでパウロを船に乗せることにしていた。パウロが、自分は陸路をとるつもりで、そう決めておいたからである。こうして、パウロはアソスで私たちと落ち合い、私たちは彼を船に乗せてミテレネに着いた。
そこから出帆して、翌日キヨスの沖に達し、次の日サモスに立ち寄り、その翌日ミレトに着いた。それはパウロが、アジヤで時間を取られないないようにと、エペソには寄港しないで行くことに決めていたからである。
彼は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたい、と旅路を急いでいたのである。
エルサレムに急ぐパウロ
どうしてパウロは急いでエルサレムに行きたいと考えていたのでしょうか。想像するしかありませんが、パウロに対するユダヤ人の反対が大きくなっていたということが考えられるかもしれません。そのような中で、パウロは決して異邦人のための新しい宗教を始めたのではなく、あくまでもエルサレムにいるイエスの直接の弟子たちのグループ、つまりユダヤ人でイエスをメシヤと受け入れたメシアニック・ジューの人たちと一つであり、分裂した訳ではないということを示したいと考えていたのかもしれません。
聖書はまずユダヤ人に与えられた
確かに神様はまずユダヤ人を選び、聖書を与えました。イエスもユダヤ人として生まれました。最初のイエスの弟子たちも皆ユダヤ人でした。しかし、ユダヤ人も異邦人も神様を中心として生きることこそ人間本来の生き方であり、幸いの源であることに変わりはありません。そういう意味でユダヤ人も異邦人も神様にあっては一つであることをパウロは示そうとしていたのかもしれません。
私たち日本人もいつも神様を意識して、神様に思いを向けて、神様を中心にして歩みましょう。それが人間本来の生き方であり、日本人本来の生き方だと思います。
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