メシヤニック・ジューの歴史から見えて来ること
秦氏の風俗、風習、文化にはキリスト教的な影響が見られることについては多くの人が指摘しています。その理由を秦氏は景教徒(ネストリウス派の東方キリスト教の一つ)だったと考える方もあれば、原始エルサレム教会の末裔と考える方もあります。私はメシアニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人)の歴史から新たに見えてくることがあるように思います。
原始エルサレム教会もメシヤニック・ジューと言うことができます
原始エルサレム教会とはイエスの直接の弟子たちを中心にする人たちで、イエスの死後、その数は数万人規模に拡大し、ユダヤ人の間で急速に広まった一つのグループと考えることができ、それに反対する人々による迫害もあったことが新約聖書の記述から分かります。彼らはイエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人(メシヤニック・ジュー)でした。A.D.30年代の出来事です。
エルサレム陥落
その後、ユダヤ人はローマからの独立戦争を始めますが、A.D.70にはエルサレムは陥落しました。この時、メシヤニック・ジュー(原始エルサレム教会)の人たちは、ユダヤ人と一緒に戦わないで、エルサレムから脱出したという記録が残っているようです。それはエルサレムが敵の軍隊に囲まれたら脱出するようにと言っていた生前のイエスの言葉に従ったと考えられています。
エルサレムに戻ったメシヤニック・ジュー
しかし、戦火が落ち着くと、メシヤニック・ジュー(原始エルサレム教会)の人たちは再びエルサレムに戻ったようです。彼らはイエスをメシヤとして受け入れていましたが、ユダヤ人としてのアイデンティティも強く持っていたようです。彼らはメシヤニック・ジューであるということに加え、エルサレム陥落の際にユダヤ人として戦わないでエルサレムを脱出したということによる、他のユダヤ人からの二重の迫害にも関わらずエルサレムに戻ったのだと思います。
エルサレムを離れるメシヤニック・ジュー
その後、再びユダヤ人は独立戦争に立ち上がりますが、その時にはメシヤニック・ジューの人たちも他のユダヤ人と共に戦ったようです。ところが、その戦いの指導者であるバル・コクバという人物をメシヤだとユダヤ教指導者のラビ・アキバが主張したため、メシヤニック・ジューの人たちは、それはもちろん受け入れられないということで、エルサレムを離れ、別の道を歩むことになったようです。A.D.135頃の出来事です。
メシヤニック・ジューと言っても一枚板ではない
その後、メシヤニック・ジューの人たちはユダヤ人としてのアイデンティティを捨てて、異邦人キリスト教徒と同化する者も出たようです。しかし、ユダヤ人としてのアイデンティティを固持した人たちもいたでしょうし、移住した先の民族に同化する人たちもいたかもしれません。中にはシルクロードを東へと向かい、やがて弓月国へ、また日本へと渡った人たちもいたのではないでしょうか。そのような人々の中に秦氏と名乗った人たちがいたのではないかと私は考えています。
秦氏をメシヤニック・ジューと考える2つの理由
私がそのように考える理由は2つあります。1つは年代的に矛盾しないということ。もう1つは、秦氏の信仰です。もし、秦氏が景教徒であったとすれば、日本でも景教徒として生きたのではないかと思いますが、秦氏にはキリスト教的な文化、風習が感じられますが、景教徒としての明確な信仰は確認できないのではないかと思います。また、メシヤニック・ジューは原始エルサレム教会の人たちの末裔であったことは間違いないと思いますが、秦氏は原始エルサレム教会の信仰を忠実に継承しているかと言えば、そうとも言えないと思います。
メシヤニック・ジューと呼べるかどうかはその定義にもよるでしょう
秦氏が自らユダヤ人であるということをどこまで自覚していたのか、またイエスをメシヤとどこまで自覚していたのかは分かりません。ただユダヤ人の文化、伝統、習慣、またイエスをメシヤとして受け入れる生き方をその先祖から受け継いでいたことは確かではないかと私は想像します。それが日本人の信仰、文化、生き方に大きな影響を与えたのではないでしょうか。
それでは今日も聖書の続きを読みましょう
聖書は神様を中心として生きた人たちの記録であり、私たち日本人の信仰のルーツだと思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心として生きるために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書をお読みください。
新約聖書 使徒の働き 21章27~30節
ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。「イスラエルの人々、手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。
そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。」 彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。
そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。
パウロに反感を持つユダヤ人たち
この時、ヤコブを初めとするエルサレムにいるイエスの直接の弟子たちを中心とするグループ(メシヤニック・ジュー)は数万人になっていたと思われますが、他のユダヤ人たちは彼らに対しては、あまり敵意は持っていなかったのかもしれません。あくまでもユダヤ人たちが反感を持っていたのは、パウロのように異邦人に神様のことを伝え、また異邦人はユダヤ人のようにならなくても良いという教えだったのではないかと思います。
パウロを糾弾したユダヤ人たち
エルサレムにいるイエスの直接の弟子たちを中心とするグループ(メシヤニック・ジュー)の人たちはそれを理解し、受け入れていましたが、そうではないユダヤ人の間には誤解もあり、パウロには反感を抱いていたのだと思います。アジヤからきたユダヤ人たちは、そのようなパウロのことを知っていたので、パウロを糾弾したのだと思います。
大切なことは宗教ではなく神様を中心にして生きること
ユダヤ教徒にとっては、自分達だけが神様の特別な民族だと考えていたとすれば、イエスの言ったことも、パウロが言っていることも受け入れなかっただろうと思います。しかし、そのようなユダヤ教の考え方は、ユダヤ教の教典である旧約聖書から見ても間違いだと思います。イスラエルが神様の選びの民であったことは事実だと思いますが、それはイスラエルに特別な役割があったということであり、決してイスラエルだけが救われるという民族主義ではありません。大切なことは自己中心、人間中心を改めて、神様を中心にして生きることだと旧約聖書も言ってると思います。それはユダヤ教徒になることではありません。またキリスト教徒になることでもありません。秦氏が宗教にはこだわらなかったのは、そう考えていたからではないかと私は思っています。
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