「自己中心」は克服できるのか

「自己中心」は困ったものですね

わがままで自己中心的な人がいると周りは大変迷惑すると思います。実は周りが迷惑するだけでなく、本人も幸せではないようです。いつも自分のわがままを通しているのですから、さぞかし本人は満足しているのではないかと思いますが、そういう人に限っていつも不平不満でいっぱいです。周りの人にとっても、本人にとっても「自己中心」は不幸をもたらしていると思います。

「自己中心」とは何でしょうか

何でも自分の思い通りでないと気が済まないというのは「自己中心」だと思います。いつでも自分は正しい、間違っているのは周りだという思いも「自己中心」だと思います。確かに自分にも言い分はあるかもしれませんが、自分にも間違ったところは必ずあるだろうと思います。人間関係というのは、どちらが正しいかという問題ではないだろうと思います。

いつでも自分が中心になりたい

それは言葉を換えれば、いつでも自分が中心になりたいということだと思います。いや、私は中心になりたくない、私のことは放っておいて欲しいという人もいるかもしれません。しかし、範囲を限定しているのかもしれませんが、その範囲内では自分のやりたいようにやりたい、放っておいて欲しい。それも「自己中心」の一つの現れだと思います。

生まれながらに皆「自己中心」?

程度の差はあるかもしれませんが、残念ながら人は皆、生まれながらに自己中心的な存在だと思います。もちろん大抵の人は、他人の迷惑にならない程度にそれを理性で抑えてはいると思いますが、誰でも見下されたり、無視されたり、不当な扱いを受ければ憤りを感じます。自分が中心だからだと思います。

「自己中心」は克服できるのか

「自己中心」は克服できるのでしょうか。たとえ無視されても、不当な扱いを受けることがあったとしても、「私のことは心配しなくてもいいよ」と、いつも他人を思いやれるような人になることはできるのでしょうか。ある程度は理性で自分の思いを抑えることはできるかもしれませんが、限界もあるでしょう。

自分を中心にすることを止める

自分を中心にしたまま、理性の力でそれを抑えるという方法には限界があると思います。修行して煩悩を滅却することも、完全にはできないと思います。そうではなく、諸悪の根源は自己中心なのですから、もう自分を中心にすることを止める以外に解決はないと思います。

無我の境地ではなく、中心を神様にする

そして、止めるだけでは十分ではありません。それは無我の境地だと思いますが、私は無我の境地というのは理想論であって、実際には無理ではないかと思っています。その空いてしまった中心を神様にすること。それが答えだと思います。

「自己中心」がどれほど悪い物かを知る

ところが、私たちは生まれつき自己中心なので、「自己中心のどこか悪い?」という開き直りのような思いがないでしょうか。「自己中心を止めたくない」というのが私たちの本音ではないでしょうか。そもそも、それが自己中心だと思います。しかし、自分が中心になっている限り、必ず不満が出てきます。自己中心が私たちの人生に影を落としていると思います。

これが「救い」!

「自己中心」は人生に「死」をもたらすが、神様を中心にするなら「命」を得ることができる。本当にそうだなと分かることが「救い」だと思います。また、それが「悟り」と言うこともできると私は思います。これが「人生の目的」だと思います。「自己中心」を止めて、「神様を中心」にしましょう。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 17章10~15節

兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。

そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。

ベレヤでも、まずユダヤ人から

ベレヤでもパウロはユダヤ人の会堂に入り、まずユダヤ人に話したことが今日の箇所からも分かります。いつも、まずユダヤ人から、それが神様の順序だと断定できるかどうかまでは分かりませんが、少なくともパウロはいつもそうしていたことが分かります。

テサロニケの人たちより良い

ベレヤの人たちはテサロニケの人たちよりも良い人たちだとありますが、どういう点で良い人たちだったのでしょうか。それは非常に熱心にパウロの話を聞き、はたしてそのとおりかどうか毎日聖書を調べたという態度に現れていると思います。つまり、これまで聞いたことのない話でしたが、ベレヤの人たちは反感を持たないで、真面目に聞いて考えたということだと思います。

先入観を捨てる

パウロの話を鵜呑みにしたということではありません。ちゃんと自分の頭で考えていると思います。ところが多くの場合、先入観が私たちの正しい思考を妨げてしまいます。あらゆる先入観を脇に置いて、まずはその話に耳を傾け、心を開き、はたして本当にそうかどうかと考えてみることが大切ではないでしょうか。その結果、多くのベレヤの人々が信仰に入ったと書かれています。信仰に入ったというのは、イエスをメシヤと分かって、神様を中心にして生きることこそ「救い」だと本当に理解し、そのように生活するようになったということだと思います。「悟った」と言ってもいいかもしれません。

「自己中心」を捨てて、「神様を中心」にして生きること。これが「救い」であることを見出していただきたいと思います。