子供の教育には何が大切なのでしょうか

あらためて思い巡らしてみました

先週まで我が家のホームスクーリングについて振り返りながらご紹介させていただきました。こうして振り返ってみて、あらためて子供の教育には何が大切なのかと思い巡らしてみました。参考になれば幸いです。

形から本質へ

子供が小さい時には具体的にあれはいけない、こうしなさいと形から教えても良いと思いますが、成長するにしたがって、形を押し付けるのではなく、何が正しくて、何が正しくないことなのかを自分で判断できるような見分け方、つまり神様を中心にして生きるという本質を教えるべきではないかと思います。

形を押し付けたのかな

インターネットを検索していると、クリスチャンの両親に育てられながら、大人になるにしたがって、キリスト教に対して批判的になり、中には無神論者にまでなった人たちが結構いることに気づかされました。そのような人たちの文章を読んでいると、親がキリスト教という宗教を形として、それが唯一の真理であると言って子供に押し付けたのではないかという気がします。

個人的な確信を真理だとする間違い

先日も書きましたが、個人的な信仰の確信を持つことは良いと思いますが、たとえ親であったとしても、その個人的な確信を真理だと言って子供に押し付け、子供が納得すれば、それはそれで良いかもしれませんが、子供が納得しない時に、「聖書にはこう書いてある」とか、「これが神様の御心だ」というような一方的な説得の仕方をすれば、「それなら聖書は読みたくない」「神様なんか信じない」ということになっても不思議ではないように思います。大切なことは親の確信を子供と分かち合うことによって、子供が自らの確信を神様を中心に築き上げることができるようにすることではないかと思います。

本来、その人がどう生きるのかとは関係ない

しかし本当は、たとえキリスト教という宗教やクリスチャンと呼ばれる人々(親も含めて)に問題があったとしても、自分はどう生きるのかということとは関係のない問題ではないでしょうか。自己中心を退けて、神様の願いや思いを中心にして正しく生きることは誰にとっても、クリスチャンであろうとなかろうと、正しいことではないでしょうか。それはキリスト教がどうであるかとか、クリスチャンがどうであるかとは関係のない問題だと思います。

宗教と神様を一緒にしない

ただ、キリスト教と神様、キリスト教と聖書が同じものであるかのように言われることが多いので、そのような誤解が生じるのだと思います。神様を中心にして正しく生きることはキリスト教の信者になることを意味する訳ではありません。神様を中心にして生きるために聖書を読むことはキリスト教の信者になることを意味する訳ではありません。その区別をはっきりとしていただきたいと思っています。

悪を行う理由にはなりません

たとえキリスト教やキリスト教徒に問題があったとしても、だからと言って自分が神様に背を向け、自分勝手な生き方をして良いと言うことはできないと思います。大切なことはキリスト教でも宗教でもなく、神様を中心にして正しい生活をし、本当に幸いな人生を生きることだと私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んで、参考にしていただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 26章30~32節

ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。彼らは退場してから、互いに話し合って言った。「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。」

またアグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言った。

神様を中心にして生きるパウロ

ユダヤの王アグリッパとその妹ベルニケ。ローマの総督フェストの前で弁明したパウロ。その内容は神様を中心にして生きることであり、決してキリスト教という宗教の話ではなかったと思います。

パウロの信仰

やがて、その信仰がローマにまで伝えられ、西欧キリスト教へと発展していったことは歴史上の事実であろうと思いますが、パウロは決してキリスト教という新しい宗教を伝えた訳ではなかったのではないでしょうか。

翻弄されないで

大切なことは神様を中心にして生きることだと思います。たとえキリスト教という宗教がどういう宗教であろうと、またクリスチャンという人たちがどんな人たちであろうと、そのことに翻弄されないで、自己中心を退け、神様の願い、神様の思い、神様の正しさを中心にして生きていただきたいと思います。それが日本人の心だと思います。

それぞれの良心

それはそれぞれが良心で判断することであって、誰かが語る神学によって判断するものではないと思います。良心に語り掛けられる神様の声なき声に心の耳を傾け、その声に誠実に生きていただきたいと願っています。それが本当に幸いな人生だと思います。

いかがでしたでしょうか

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