やっぱり日本人は素晴らしいと感じる瞬間

「海外在住者が帰国して『やっぱり日本人は素晴らしい』と感動する瞬間」というサイトからご紹介いたします。

1.「15分程、お時間頂きますがよろしいでしょうか?」と断りを入れられたとき

日本の銀行で手続きをしたときに窓口の行員に言われたこの言葉には正直、驚きました。海外では国営であれ、民営であれ、「窓口」と付くものは待たされるのが基本。1時間以上待たされることも少なくありません。

日本人は「時間を守る」国民であり、自分以外の人の時間も大切にしてくれるんだなぁ~としみじみ感動したのを覚えています。

2.「本日は電車が遅れまして大変申し訳ございませんでした」という車内アナウンスを聞いたとき

天候不良で列車が遅れた時のこと。天候不良は鉄道会社の責任でもないのに、「すみませんでした」と素直に謝る姿勢に日本人らしさを感じました。海外では、謝罪の言葉を口にする=責任をとらなければいけないという発想になるので、そう簡単には謝りません。

すぐに謝る低姿勢を保っているからこそ、日本は争いや口論が少なく、平和でいられるような気がします。

3.着陸した機体におじぎをする整備士を見たとき

素晴らしい日本の整備士
素晴らしい日本の整備士

乗っていた飛行機が日本に着陸したときのこと。飛行機の整備士たちがきれいに横に一列に並び、着陸と同時に深々と頭を下げてお辞儀しているのを機内の窓から見かけて驚きました。筆者はこれまでフランス、イタリア、オーストラリア、シンガポール、ロシア、中国、韓国、香港で飛行機の着陸を窓から見たことがありますが、機体に向かって一礼をする国は日本だけでした。

これには心底感心しました。なんて礼儀正しい国民なんでしょう!と周りの外国人にも教えたい気持ちになりました。(飛行機に乗る機会がある人はぜひ確認してみてください。)

4.電車でぐっすり眠っているサラリーマンを見たとき

日本では当たり前の光景ですが、たまに日本に帰る人から見ると何とも平和な光景で心がなごみます。電車でぐっすり眠れるほど、安全な国なんだな、日本人は盗まない人が大半なんだなと思い、ほっとします。

他にも、レストランなどで席に荷物を置いて注文に行く人を見かけたときや、花火大会などの人が多く集まる場所などで、ジーンズの後ろポケットに財布を入れた男性などを見かけるときも同様です。

5.店員が一人しかいないような店でもテキパキ働いている姿を見たとき

上司が近くにいない場合でも一生懸命に働く日本人は、つくづく真面目で勤勉だなぁと思います。店員が一人しかいないような店でも、大きな声で「いらっしゃいませー」、「どうぞご覧下さいませー」と常に声出しをしている人を見る度に感心します。

海外でこのような光景を見ることはほぼありません。店員が一人しかいないような店では、店員はスマホを見たり、長電話したり…という場合が多いです。周りに見られていようがなかろうが、真面目に働く日本人は素晴らしいです。(サイトからの引用は以上です。)

日本人の心

時間に遅れない、時間を大切にする、時間にルーズでない日本人。謝る日本人。腰が低いこと、謝ることができることは日本では高く評価される人格だと思います。日本人の礼儀正しさ。それ自体が素晴らしいことであって、日本人であれば何のためにそうするのかと聞く必要もないことだと思います。日本の安全性については、今更言うまでもないことでしょう。極めつけは上司がいなくても真面目に働く日本人。日本人は人間の尊厳を知っているということではないでしょうか。

神様を中心にして生きる

目先の損得ではなく、日本人は太古の昔から、神様を中心にして生きて来たからだと私は思います。そこに人間としての尊厳も喜びもあると思います。今こそ神様を中心にして生きるという日本人の心を大切にしていただきたいと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様に思いを向けて生きるために聖書をお読みいただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 26章12~20節

このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。

私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』

私が、『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。

パウロの原点

ユダヤ人から訴えられていることについて、ユダヤの王アグリッパの前で語ったパウロの弁明の続きです。回心についての超自然的な体験をここでもパウロは語っています。私自身はこのような体験をしたことがないので、文字通りこういうことがあると断言はできませんが、あるかもしれないと私は思っています。少なくとも、この体験がパウロの回心の原点であることは間違いないようです。

神様を中心にして生きる

「悔い改め」とは方向を変える、中心を変えるという意味です。これまで、自分の考え、自分の願いを中心にして生きて来た生き方を、神様に立ち返り、神様の考え、神様の願いを中心にして生きるようになることを言っていると思います。ユダヤ教を止めて、キリスト教に改宗するようにということではなく、自己中心を止めて、神様を中心にするようにというのがパウロが宣べ伝えていたことだと思います。

そこに人間の尊厳があり、本当の幸いがあり、日本人の心があると思います。

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