大和魂とユダヤ魂

日本とイスラエルの類似は言葉や習慣などの外面的なものに留まらず、精神面の関連を示すものもたくさんあるようです。今日は坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」から、マサダの砦についてご紹介いたします。

マサダの砦

エルサレムから東側へ車で下ること一時間。世界で一番低い場所。そこには有名な死海がある。その死海から少し離れた場所にマサダの砦はある。それは巨大な岩山を利用して造られた要塞である。

紀元70年、ローマ帝国の軍隊がユダヤの国を攻めた。圧倒的な武力で、わずか四カ月で首都エルサレムは陥落。神殿は破壊され、ユダヤの人々は世界中に散らされた。

しかし、最後の最後まで戦ったユダヤ人たちがいた。彼らはこのマサダに立て籠もり、最後の抵抗をした。その数は967名。その中には婦女や子供たちもいた。

3万人のローマの大軍は、砦を囲み攻めようとするが、険しい絶壁が最大の防御となり、攻めきることができなかった。戦いは3年にわたり続いた。ローマ軍はついに別の作戦を開始する。砦の頂上に向かって土を盛り上げ、突撃用の通路を作り始めた。

やがて道は頂上に届いた。砦の壁は「破城槌」と呼ばれる武器で破壊された。ローマ軍が中に進攻すれば、ユダヤ側に勝ち目はない。その時、ユダヤ人の指導者であったエリエゼル・ベン・ヤイールは次のように語りかけて自決の覚悟を促した。

「勇気ある立派な戦士諸君、我々はかつてローマ人にも神以外の他のいかなるものにも、奴隷として仕えないと決心した。というのも、神だけが人間の真実で正義の主人だからである。今我々の決意を行動で証する時がきた。今我々が生きながらえてローマ兵たちの手に落ちれば、奴隷にされるのはもちろんのこと、間違いなくひどい仕打ちを受ける。我々はローマに反旗を翻した最初の者であり、ローマ兵たちと戦う最後の者となった。私は信じる。我々は自由の戦士として立派に死ねるこの恵みを、神から与えられているのである。同士諸君!我々の妻が辱められる前に、子が奴隷の身を経験する前に、彼らを天に送ろうではないか!そして彼らが逝ってしまったら、我々も自由を埋葬用の高貴な包み布として保持しながら、互いに相手に対して寛大な奉仕をしようではないか。しかしそうする前にまず、我々の持ち物と要塞を焼き尽くそう。そうすれば、私にはよく分かるのだが、ローマ兵たちは、我々の肉体を制圧できないために、また期待したものにもありつけないために嘆き悲しむであろう。だが食糧だけは残しておこう。なぜならそれは、我々が死んだ後も、決して我々が食糧不足のために屈したのではなく、最初の決意どおり、奴隷になるよりも死を選んだことを我々のために証してくれるからである」(ヨセフス著『ユダヤ戦記』より)

この演説の後、彼らは玉砕を決行する。このマサダに象徴されるように、殉教の死、自害はユダヤ教の歴史にはたびたび英雄的行為として語り継がれている。自殺は忌むべきもの、ユダヤの掟を破る行為である、と厳しく規定しているにもかかわらず。

ユダヤ教のラビ(教師)であるロッテンベルグ師は、この二千年前のユダヤ魂ともいうべき行為は、やがて日本にわたり大和魂と成ったのではないかという。確かに、このマサダでのユダヤ人の行動は、第二次大戦における日本軍の「生きて虜囚の辱めを受けず」といって、玉砕の道を選んだ、沖縄やサイパンなどでの行動を彷彿とさせるものがある。(本からの引用は以上です。)

大和魂とユダヤ魂

いかがでしたでしょうか。このようなユダヤ人の精神性、美徳、価値観は、我々日本人に共通するもであると同時に、他の民族には見られないものではないかと思います。大和魂のルーツはユダヤ魂である可能性が高いと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、私たち日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心にして生きるために聖書をお読みいただきたいと思っています。

新約聖書 使徒の働き 26章8~11節

神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。

以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。

また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。

パウロの弁明の続き

これはアグリッパ王の前で弁明するパウロの言葉の続きです。パウロがユダヤ教の体制側の人たちから訴えられている内容は、ユダヤ教の教典である旧約聖書に約束されていたことであり、神様が死人をよみがえらせたという希望のことだとパウロは言いました。それは決して新しい教えや宗教ではなく、旧約聖書に基づくもの。私たちの神様が成し遂げてくださったことだとパウロは言っているのだと思います。

共感しつつ真実を示すパウロ

確かに旧約聖書にはそのように約束されていても、そう理解していなかった人々にとっては、すぐに受け入れられないのは分かります。パウロ自身も初めは受け入れることができず、強硬に反対すべきだと考えていたとも言っています。すぐには受け入れられない気持ちにパウロは共感しつつ、真実を見極められるようにと語っているのではないでしょうか。

感情はありますが、中心にしてはいけません

時に感情が真実を受け入れることを拒絶させてしまうことがあると思います。しかし、感情を中心にすれば、真実を見誤ってしまうと思います。私たちに感情はありますが、感情を中心にしないで、神様を中心にして、真実を客観的に見極めることが大切ではないかと思います。

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