昨日、ご紹介した『行列に並ぶのは当たり前 日本人の国民性は外国人の「理想像」?』にこういうエピソードが載っていました。
行列の並び方
ニューヨークには、世界には本当に多様な文化が存在すると実感する機会が多い。例えば、バス停やお店のレジなどで人が行列を作って待っている場面。日本人だったら、特に何も考えなくても、普通に、その行列の最後に並ぶだろう。
どこに割り込めるか
でも、多様な文化や価値観を持つ人々が集まってるニューヨークでは、こういう場面で、行列の横を通って先頭の方まで行き、どこかで割り込みしようとか、割り込みできるんじゃないかと様子を伺う人も出てくる。知らずに迷い込んだのではなく、あたかもそれが当然という素振り。
「あぁ、列があったのね!!」
そして、たいていの場合、行列の中で待ってる正義感の強いアメリカ人に「みんな並んでるんだから、あなたもちゃんと後ろに並びなさい」と一喝されて、「あぁ、列があったのね!!」と気づいて、そそくさと後ろにつく・・・・。
「気づくふり」ではない!?
コレが不思議なことに、「気づくふり」じゃなくて、本当に無意識にそういう行動をとってしまったという感じの人がかなり多い。
それが普通と感じる人々
自分さえ先に乗れれば良いとか、割り込みするのは当たり前と、普通にみんなが考えている国や地域は実際存在するし、そういうところで育った人は自然と無意識にそう考えてしまうのだろう。
習慣とは無意識の行動パターン
そういう環境で育って、子どもの頃から行動パターンに刷り込まれてきた結果、今だに、行列に遭遇すると、先頭の方に行って割り込めないか・・・と、ついつい無意識のうちにその行動パターンが出てしまうのかもしれない。
でも、言われれば分かる
そんな彼ら、彼女らも、「あなたもちゃんと後ろに並びなさい」と一喝されれば、そそくさと行列の後ろにつくことから、アメリカではこういう場面で行列にちゃんと並ぶのが当たり前ということも一応理解している。(中略)
「人間としてどうか?」という基準
さてところで、多様な文化が集まるニューヨークでは、「人間としてどうか?」という判断基準自体によって、人々が行動するようになる。
自己中心は良くないと皆分かっている
こういう環境に長くいると、もともと持ってる文化や価値観が自分のことしか考えないエゴイスティックなものだった人々の中にも、その呪縛から解き放れたいと真剣に思う人が自然に出てくる。
人間の良心
きっと、多様な文化を持つ人々と交流すればするほど、呪縛を解きたいと強く思うようになるだろう。(サイトからの引用は以上です。)
理想としての日本人
いかがでしたか。生まれ育った文化や習慣は違っても、「人としてどうか?」という普遍的な価値観が人間にはあるということを示しているのではないでしょうか。そして、この記事の著者も言っているように、全世界の人々が、その「理想像」を「日本人の国民性」の中に感じるということだと思います。
「宗教」か、「良心」か
私は「宗教」によって、ある一つの価値観を真理だと主張して人に押し付けることに危惧を感じています。「宗教」にはそのような側面があると思います。大切なことは「人としてどうか?」という「良心」でそれぞれが判断して生きることではないでしょうか。神様はそのような「良心」を人間に与えたのではないでしょうか。
神様の声、良心の声
神様の声、良心の声を中心にして生きることが大切だと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、私たち日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を参考にしていただきたいと思っています。聖書は神学で読むのではなく、「良心」で読むべきだと思います。
新約聖書 使徒の働き 28章1~6節
こうして救われてから、私たちは、ここがマルタと呼ばれる島であることを知った。島の人々は私たちに非常に親切にしてくれた。おりから雨が降りだして寒かったので、彼らは火をたいて私たちみなをもてなしてくれた。
パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出して来て、彼の手に取りついた。島の人々は、この生き物がパウロの手から下がっているのを見て、「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と互いに話し合った。
しかし、パウロは、その生き物を火の中に降り落として、何の害も受けなかった。島の人々は、彼が今にも、はれ上がって来るか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼に少しも変った様子が見えないので、彼らは考えを変えて、「この人は神さまだ」と言いだした。
人々を励ます
船は大破しましたが、乗っていた人々は全員助かりました。パウロが果たした役割は大きかったのではないかと思います。マルタという島でも、パウロは柴を火にくべるなど、人々を励まし、精力的に行動している様子をうかがうことができます。危機的な状況の中でも、中心が神様であるなら、こうして人々を助ける者となれることを思います。こういう人が一人いると、みんな元気になって、良い成果をあげることができるようになると思います。
神様の奇蹟なのか
また、パウロは毒蛇にかまれても、何の害も受けなかったという出来事が記されています。事実なのかどうか、私には知る由もありませんが、もし事実であれば、神様の奇蹟的な守りなのかもしれません。そういうことがいつもあるとは言えませんが、神様には可能だと私は思います。でも、神様はパウロが蛇にかまれないように守ったのではなく、かまれても害を受けないように守ったことによって、人々はパウロは特別な人(「この人は神さまだ」と言ってます)だと思うようになったのかもしれません。(それにしても毒蛇にかまれても平然としているパウロはすごいなあと思います。)
私たちのすること
もちろん、私たちは神様の意図や計画の全てを知ることはできませんし、パウロも自覚していた訳でもないと思います。ただ、必要なことは良心で判断できますので、私たちとしては神様の支配の中で、神様を中心にして生きる。それが私たちのすることではないかと思います。
いかがでしたか
参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。