「人間関係」衝突の先にあるもの

意見交換するビジネスマン

「良い人間関係は、衝突することを前提としている。」という記事を読み、なるほどそうだなと思いましたので、ご紹介いたします。

良い人間関係とは何か

あるwebサービスを運営する会社の社長と話をさせていただいた時、「良い人間関係とは何か」という話になった。

通常、良い人間関係というと、気が合うこと、話が盛りあがること、お互いを尊重できること、などの特徴が挙がってくるが、その経営者は「そんなものは良い人間関係とはいえない」と言った。

「僕は人を多く見てきてるから、よく思うんだけど、「気が合う」とか「お互い尊重できる」とかって、本当に苦しい状況に追い込まれた時には、簡単に壊れるんだよね。」

「苦しい状況とは?」

「例えば、一緒に起業したけどうまくいかない、とか。」

「ほう」

「なぜ、壊れてしまうんでしょう。」

「気が合う、ってのがワナだね。多くの人が「気が合う」って感じているのは、実際は衝突がないだけ。表面をなぞっているだけの人間関係だよ。」

本当の人間関係とは

「うちの会社で、こんな話があった。昔、部長が二人いたんだよ。業績が良い時は、すごく良い人間関係だと皆思っていた。なにせお互い衝突することはほとんどどない。たまに議論があっても、「じゃ、あなたの案で行きましょう」と、簡単に合意できる。」

「はい。」

「でも、それ、全部ウソだったね。私の人間理解が甘かったんだが、良い人間関係って、衝突の上に築かれるものであって、和やかさの上には築かれない。」

「何故そう思ったのですか?」

「会社の業績が伸び悩みを見せ始めた時、「なんか雰囲気悪いよね」と誰もが感じてたけど、だれもその原因がわからなかった。」

「はい」

「で、一人ひとりに時間を作って「何が問題か」と聴いて回ったら、よくわかった。皆が「言いたいことがあるのに、黙っている」という状態だった。何で直接言わないんだ、と聞くと、人間関係を壊したくない、っていうんだよね。これ、メチャクチャヤバイと思った。つまり、人間関係を壊したくない、と思う心が、人間関係を更に悪化させる、ってことだ。」

「衝突があること」が必須条件

社長は言った。

「だから、オレはもう「良い人間関係」は「衝突があること」が必須の条件と思ってるよ。」

「衝突があるからといって、良い人間関係とはいえないですよね。いがみ合ってるだけとか。」

「もちろんそうだ。だから「衝突」はベースにあるだけ。人間同士はもともと衝突するもの、そういうように考えることがまず出発点。」

「その先には何が?」

「簡単だよ。衝突の先にあるのは、対話だよ。相手の話を聴いて理解しようとする姿勢。」

衝突の先にあるもの

オランダの哲学者であるスピノザは著書の中で、「私は人間を嘆かず笑わず嘲らず,ただひたすら理解しようと努めた」と述べた。

「良い人間関係」とは、衝突を恐れず、相手を理解しようとする姿勢そのものである。そう言って良いのかもしれない。(サイトからの引用は以上です。)

神様を中心にする

人それぞれに意見の違いがあることは当たり前のことだと思います。また、私たちは皆、感情がありますので、傷つけたり、傷ついたりすることもあり得ることだと思います。それでも、相手を理解しようとすることを止めないこと。それは人を尊重することであり、人を愛することであり、神様を中心にする生き方だと思います。衝突を恐れないで、ダイナミックな人間関係を築いていただきたいと思います。

聖書を読みましょう

そのためにはいつも自分を神様の前に吟味することが有益だと思います。毎日、時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めいたします。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書をお読みください。

新約聖書 マタイの福音書 3章11、12節

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕(み)を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。

バプテスマのヨハネの言葉の続き

ヨハネは自己中心を止めて、神様中心の生き方をするようにと水のバプテスマ(全身を水に浸す宗教儀礼)を授けていますが、ヨハネのあとから来られる方、つまりメシヤはさらに力のある方で、ヨハネはその方の足もとにも及ばないと言いました。

聖霊と火のバプテスマ

メシヤは聖霊(神様の霊)と火のバプテスマを授けるとヨハネは言いました。それはどういうことなのでしょうか。手に箕(麦と殻をふるい分ける農具)を持って、麦と殻をふるいにかけ、麦は倉に納め、殻は消えない火で焼き尽くされ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめると言っています。

私たちをきよめる神様の力

それは私たちの内から良いものと悪いものをふるいにかけ、私たちをきよめてくださるということではないかと私は思います。それは水のバプテスマという宗教儀礼以上のものだということではないでしょうか。それは神様の霊の働きであって、神様を中心にして生きることによってもたらされるということではないかと私は自分の経験からも思っています。

体験してください

それは神様を中心にして生きる人の内に働く神様の霊の働きということではないでしょうか。宗教ではなく、自己中心を退け、神様を中心にして生き、神様の力を体験していただきたいと願っています。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA