「幸いな結婚」90代老夫婦に聞いた秘訣

老夫婦と海

「90代老夫婦に聞いた!おしどり夫婦になるための9のステップ」という記事を読みました。やはりこれまでお伝えした内容に共通していることは多いですね。でも確かにそうだと改めて思ったこともありました。いくつかご紹介いたします。

とにかく話し合う

すれ違いや誤解をなくす努力が大切ですね。「夫婦間の意見の食い違いは日常茶飯事」とありました。怒りをぶつける前に、なぜそうなのかを話し合うことが大切だと思います。70年一緒にいてもそうであれば、絶対に必要なことでしょうね。

相手に求めすぎない

どうしても期待はありますよね。夫婦ですからね。他の人ならともかく、夫(妻)には分かって欲しいという気持ちはあるでしょう。それは当たり前のことだと思います。ポイントは「すぎない」ということでしょうね。

金銭問題に打ち勝つ

夫婦は生計を共にする運命共同体ですから、金銭問題はお互いにとって重要なことだと思います。どちらか一方に全てを任せて口出ししないという夫婦もあれば、良く話し合って二人で決めるという夫婦もあるかもしれません。いずれにしてもお互いに納得していることが大切ではないかと思います。どっちでも良い問題ではないですよね。

過去の過ちを振り返らない

「過去の相手の過ちを持ち出すのはルール違反。相手を傷つけるだけでなく、現状の幸せを台無しにしてしまいます。」とありました。いつまでも持ち出していませんでしょうか。パウロという人が書いた「コリント人への手紙」の中に、「愛」とは何かを説明する文章があり、新約聖書の中に納められていますが、その第一番目に「愛は寛容である」と記されています。「寛容」とは大目に見ること、見逃すことでしょう。それが「愛」の特徴の筆頭だとパウロという人は書いたのではないでしょうか。

怒りをコントロールする

「カッ」となって何かをしないように気をつけたいですね。ニュースを見ていると、多くの犯罪の動機がこれだと思います。平常であれば言わないこと、やらないことを「カッ」となるとしてしまうことがあります。「カッ」としやすい人は特に注意が必要です。言動は感情が静まってからの方が良いでしょう。一瞬の感情で、一生後悔することがないようにしましょう。

愛情表現を欠かさない

どんな表現でも良いと思います。でも表すこと、伝えること。それが大事ではないでしょうか。90代のベテラン夫婦でもそう言っているのであれば、なおそらではないかと思います。

聖書を読みましょう

結局、問題の原因は自己中心だと思います。自己中心は努力と頑張りで克服することは不可能だと思いますが、神様を中心にすれば克服できると思います。そのために毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めいたします。聖書は神様を中心にして生きようとした人たちの記録であり、実は日本人の信仰と生き方のルーツでもあります。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 マタイの福音書 5章21~26節

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

殺人は有罪です

「昔の人々」とは、モーセの時代のユダヤ人ということでしょうか。モーセに与えられた「十戒」にも、「殺してはならない」という言葉がありました。現代の日本人でも異存はないでしょう。「さばき」とは裁判ということであり、有罪の判決を受けなければならないという意味だと思います。

「怒り」だけでも有罪

しかし、イエスは腹を立てて、「能なし」とか、「ばか者」と言うだけで有罪だと言っているのだと思います。つまり、「怒り」は殺人の罪だと言っているのでしょう。気をつけなければならないと思います。

早く謝って和解しなさい

それに続く教えは、どうつながっているのか、今一つ私には分かりませんが、「怒り」との関連で言っているのだとすれば、怒って何かを言って、恨まれている、告訴されているということなのかもしれません。それは供え物をささげる、つまり宗教儀式より優先されること、早く謝って和解しなさいということかもしれません。

それは神様の前に正しいこと

「怒り」で失敗したことがない人はいないでしょう。夫婦であっても、親子であっても、良心が責められるなら謝ることが大切だと思います。必ずしも人は赦してくれないかもしれませんが、それでも自分の非を認めて、謝ること。それは神様の前に正しいことだと思います。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。シェアのご協力もよろしくお願いします。「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きることこそ日本人の心であり、正しい生き方であり、幸いな生き方であることを多くの人に知っていただくためにパンフレット「日本人の心」を作りました。1枚4円(100枚以上は送料無料)で販売します。どうぞ皆様の知り合いの方にお渡しいただければ幸いです。ご協力をよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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