先週、日本にある「キリストの墓」をご紹介しましたが、徳島には栗枝渡(くりしと)という八幡宮があるそうです。坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」から抜粋してご紹介いたします。
栗枝渡八幡宮
栗枝渡八幡宮には神社特有の鳥居はなく、正面の瓦紋には菊の御紋が使われている。これは皇室の家紋であり、古代ユダヤ王国のマークでもある。実はこの「栗枝渡八幡宮」は、現在は「くりしと」と呼ぶが、かつては「栗須徒(くりすと)神社」と呼ばれていたそうだ。(中略)安徳天皇がこの東祖谷(ひがしいや)村に逃れ、1186年に崩御され、この八幡宮に祀られたため、本来は栗須戸神社だった名前を栗枝渡神社と改名した。
なぜ四国なのか?
古代ユダヤ人が渡来し、ソロモンの秘宝である「契約の箱」を埋めたとされる剣山。その山のある四国の徳島とはいったいどのような場所なのだろうか。またなぜ四国なのか?実際に阿波・徳島の地で感じたことは、「ここがもしかして日本建国の発祥の地ではないか」ということだった。
四国の阿波徳島ではないのか
『古事記』や『日本書紀』では、九州の霧島に天孫降臨し、そこから神武天皇の東征が始まったとある。しかし2600年前の航海技術などを考えても、九州の霧島よりも、四国の阿波徳島から神武天皇は船出し、建国の地である奈良の橿原に辿り着いた、と考えた方が自然だ。
高天原は阿波だったのではないか
また徳島には「天の岩戸」など日本の神話の舞台も存在する。平安時代に全国の神社の格付けを行った「延喜式神名帳」には、全国の神社が約三千も掲載されている。そのうち、『古事記』に登場する重要な神様を祀る神社が、徳島にしかない例が数多くある。例えば、イザナミを祀る神社は、唯一徳島の美馬市にしかない。そのような理由から、「高天原は阿波だった」と主張する人もいるくらいである。
阿波徳島から奈良へ
その他にも奈良県と同じ地名が、実は阿波徳島に多く存在する。吉野川をはじめ、天の香具山などだ。(中略)『万葉集』には天の香久山を詠った歌が多く、なかでも舒明天皇の御歌が有名である。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴨立ち立つ
うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
しかし現在この歌が詠まれた場所に行っても、カモメなどは見えない。昔は海だったとするが本当だろうか。しかし阿波徳島には、この歌の風景にぴったり当てはまる場所がある。次の歌も奈良の風景と考えると不可解だ。
磯の崎こぎたみ行けば 淡海(あわ)の海 八十の湊にたずさわに鳴く(高市黒人)
淡海を琵琶湖ととらえると、意味が通じない。しかし、阿波の淡島神社の東の海ならば、意味は通るのだ。つまり四国に渡来したユダヤ人が、日本建国の事業に参画したのではないだろうか。
日本建国の歴史
古代イスラエル人たちが、アッシリアの占領により捕らえらえ、その後姿を消したのが紀元前722年。そして日本の建国が紀元前660年。イスラエルからの移動時間や、徳島から橿原への東征の時間などを考えると、時間的には合う。「契約の箱」を運んだイスラエル人たちは、吉野川を通り上陸し、剣山にそれを運んだのであろうか。一日も早い、秘宝発見が待たれる。(本からの抜粋は以上です。)
日本とユダヤの歴史的な関係は否定できない
今も認められる日本人とユダヤ人の文化の類似性は他国には見られない特異なものであることを考えると、古代日本におけるユダヤ人の影響を否定することはできないと私は思います。日本人の信仰、文化、伝統はユダヤ人の信仰、聖書の信仰、またその後も引き続いて渡来して来たメシヤニック・ジュー(イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人)の信仰と深い関係があると思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の信仰と文化のルーツだと思います。キリスト教という西欧の宗教の教典としてではなく、神様を中心として生きる日本人の心を知るために聖書を読んでみていただきたいと思います。
新約聖書 マタイの福音書 5章31、32節
また、『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
旧約聖書にはこう書かれています
「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主(私は在るという方)の前に忌みきらうべきことである。あなたは神、主(私は在るという方)が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」
自分に都合の良い解釈
この旧約聖書の律法は、妻が夫の所有物であるかのように考えられていた時代に、気に入らないからと言って簡単に離婚することを戒めているのではないかと思います。しかし、人々は離婚状を渡せば離婚しても良いと都合良く解釈していたのかもしれません。イエスはそうではないと教えたのではないでしょうか。
問題は自己中心。神様を中心にして生きる
様々な理由があって、残念ながら離婚に至ることもあると思います。イエスも旧約聖書も決して離婚は罪だと一方的に言っているのではないと私は思います。しかし、自己中心は私たちの生活に悲しみをもたらします。神様を中心にするとはどういうことなのか。もちろん、答えは一つではなく、それぞれにあると思いますが、そうやってお互いに神様を見上げて、良心の声を聞きつつ、神様の前に歩むことが大切ではないかと思います。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。