【日本人と日本文化】大きな家族としての日本

大家族イラスト

日本人には一つの大きな家族のように、上に立つ者は下の者を守り、下の者は上の者に従うという信頼関係を基本とする国民性があり、この点においても他国との違いが際立っているように思います。このことについて、伊勢雅臣著「世界が称賛する日本人が知らない日本」からいくつかご紹介いたします。

我が国における「自由」の伝統

国民の自由とは、洋の東西を問わず権力者による支配に制約を与えることによって守られるが、西洋の人民の自由は、フランス革命、英国の名誉革命、アメリカの独立戦争に見られるように、権力者との戦いを通じて勝ち取られてきたものであった。

それに対して、我が国においては国家の成立時点から、権力の正当性は国民の幸福を守ることに存する、という思想があり、国民の自由を制圧し、民を幸福にできないような政治は失格である、と考えられてきた。

「人々がみな幸せに仲良く暮らせる」国

そもそも我が国は「大和」すなわち、「大いなる和の国」であることを目指して建国された。初代・神武天皇は、橿原の地に都をつくる際に、次のような詔を出している。

このうえは、天照大神のお心にそうように、大和の国のいしずえをしっかりとしたものにするように、おたがいにゆたかな心をやしないましょう。人々がみな幸せに仲よくくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。

日本語が生み出す思いやり社会

職場で英語が公用語になり、日常会話も英語で行われるようになると、日本企業では「部長からご指示頂いた件ですが」と言うところを、英語で「あなたから指示された件ですが」などと言うようになるだろう。

それはそれで、外国人社員には働きやすい職場にはなるだろうが、日本語が生み出すこまやかな人間関係は失われていくだろう。たとえば、先輩が後輩を自分の弟のように手取り足取り仕事を教えたり、社内で家族のように力を合わせるという、目上・目下関係、疑似家族関係の中でこそ生まれる思いやりの世界は薄れていく。

長期安定雇用のもとで、日本語社会の思いやりに満ちた人間関係をつくり、その中で人を伸ばし、チームワークを発揮していく、という方向もある。外国人社員にも日本語を学ばせ、その関係の中に組み込んでいく、ということもできる。このような「人づくり」と「人の和」こそ我が国の強味であった。(本からの引用は以上です。)

神様を中心にした国

国家も、職場も家族のように信頼関係を土台にするのが日本の伝統であったということだと思います。それは神様を中心とした国家だと言えるのではないでしょうか。神様の慈しみ深い守りと導きの中で、日本人は安心して自己中心を放棄し、神様を中心にして生きて来たのだと思います。今、世界が取り戻さなければならないのは、この日本人の心ではないでしょうか。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の文化、伝統、生き方に深い関係があると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるという日本人の心に触れるためにも聖書をお読みいただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 10章21~25節

兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

覚悟を求める

おびただしい弟子たちの中から12人を選び、使徒として派遣するにあたって語られたイエスの言葉の続きです。これは反対者に対する心構えを言っているのだと思います。兄弟や親子が必ず反対するということではなく、そういうこともあるかもしれません。すべての人に憎まれるというのも文字通りと言うより、それでも最後まで神様を中心にして生きる覚悟を求めているのだと私は思います。

説得ではない

明らかに神様に敵対し、自己中心を正当化しようとする人たちとは歩み寄る余地はないでしょう。ベルゼブルとは悪魔の親分みたいな存在でしょうか。イエスをそのように呼ぶ人たちと歩み寄る余地はないでしょう。私たちは神様を中心にした生き方について、言葉を尽くして説明はしますが、それは説得ではないということだと私は思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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