【日本とイスラエル】イスラエル十部族は日本に来たのか

ラクダの隊列

古代日本にユダヤ人はやって来たのか。ユダヤ教のラビであり、日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介します。

ケンペルの見た日本

1690~1692年の江戸時代に、日本・長崎の出島に滞在したドイツ人医師がいる。彼の名はエンゲルベルト・ケンペル。(中略)彼はヨーロッパに帰ってから、日本での体験を本にまとめて出版した。

本の中でケンペルは、日本人の言語や風習、宗教は、中国や韓国のものとは様々な点で大きく異なっていると述べている。そして、日本人の主要民族は中国人や韓国人から分かれ出た人々ではない、むしろ、バビロニア地方から直接やって来た民族が日本の主要民族になったに違いない、と述べている。

バビロニア地方とは、中近東地域のことである。それはイスラエル十部族の捕囚地となったアッシリヤ帝国のあった所でもある。(イスラエル十部族のアッシリヤ捕囚について、詳しくはホームページ「日本とイスラエル」をご覧ください。)

ケンペルはまた、彼が見た江戸時代の日本についてこう述べる。「日本人の形態は、国内の場所によって、私たちの目にもはっきりわかるほど著しい違いがある。これは、日本人がもともと一個の主要民族のもとに、様々の他の民族が次第に加わって形成されたことを確かに実証するものである。・・・・・・

最も貴く最も古い家系の人々や、大名、高官等の人々は、一般に才力敏捷で、容姿は他のものより美しく、威厳があり、鼻も少し高くてヨーロッパ人のに似ている。薩摩、大隅、日向の人々は、身長は中くらいだが、強厚で、言語、資質ともに男性的である。・・・・・・」

そのほか、日本の各地の人々の形態や性質に、大きな違いがあると述べている。そして、「日本人の根本、および最初の起源について言えば、日本人は一個独立の民族であると思われる。その由来については中国人から分かれ出たものではないと、認めなければならない」と書いているのである。(本からの引用は以上です。)

イスラエル十部族と日本人

マーヴィン・トケイヤー氏はB.C.722のアッシリヤ捕囚以降、イスラエル十部族がシルクロードを通って東に向かい、日本までやって来た可能性について、アフガニスタン、パキスタン、インド、ミャンマー、中国で発見されたユダヤ人の末裔について触れつつ述べています。ケンペルの文章からもその可能性が窺われると思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、私たち日本人の文化、生活に深い関係があると思われます。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読んでみていただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 11章20~24節

それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」

神様を中心にしようとしない人々

コラジンもベツサイダもガリラヤの町であり、イエスが神の国を宣べ伝えたユダヤ人の町々です。明らかに神様の力がイエスを通して働いていることを目の当たりにしていたにも関わらず、ガリラヤの多くのユダヤ人は神様を中心にしようとしなかったということだと思います。

ユダヤ教徒ではない外国人でも

ツロとシドンとはフェニキヤ人の都市であり、ユダヤ人の町ではありません。ユダヤ教徒ではない外国人でも、イエスの働きとその言葉を聞けば、自己中心を退けて、神様を中心にするようになったであろうということだと思います。

ユダヤ教徒だからということではない

カペナウムもまたガリラヤの町、ユダヤ人の町です。ユダヤ教徒だからと言って特別天にあげられると思っているのかもしれないが、そうではないということでしょう。ハデスとは地獄を意味する言葉。苦しみの場所ということだと思います。

ソドムでも

ソドムとは、旧約聖書に出て来る町で、その不道徳のために滅ぼされた町です。そのソドムでもイエスの働きとその言葉を聞けば、自己中心を退けて、神様を中心にするようになったであろうということだと思います。

本当に神様を中心にする

イエスはユダヤ教徒であるユダヤ人に向かって語っているのです。大切なことは宗教ではなく、自己中心を退けて、本当に神様の思いや願いを中心にして生きることだと思います。それが救いであり、それが幸いな人生だと思います。

いかがでしたか

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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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