【キリスト教・宗教】日本人に「宗教」は要らない

奈良の大仏

元クリスチャンで現在は曹洞宗の住職をされているドイツ人ネルケ無方氏の「日本人に『宗教』は要らない」という本には共感する事がいくつもありますのでご紹介して、私の考えも書いてみたいと思います。

現世利益を求めるむなしさ

日本人は仏教と神道を明確に区別していない。初詣には、お寺にも行くし、神社にも行く。どちらにも行くという日本人は多いだろう。寺社のどちらに行ってもいいが、どういう理由で行くのかが問題である。仏にも神にも、どちらに手を合わせてもいいと私は思うが、問題はその対象ではない。どういう姿勢で手を合わせているかが問題である。例えば、神仏にしつこくお願いをするという姿勢に、私は批判的だ。それは、まるで子供が親にお願いしているようなものだからである。

私の考え

「問題は対象ではない」とネルケ氏は言います。私の言い方で言えば、問題は宗教ではないということと同じだろうと思います。宗教の形態は違っても神様は同じ。それが日本人の信仰であり、私も全くその通りだと思っています。しかし、ネルケ氏はお願いばかりの信仰には批判的だと言っています。確かにそれは自己中心であり、神様が中心になっていないという点において私も同感です。でも、私たちは子供のように神様にお願いすることもあって良いのではないかと思っています。ただ、いつまでも子供ではいけないし、それだけではいけないというのが私の考えです。自己中心を退け、神様を中心にして生きる。それが人格的な成長ということではないかと私は思っています。ネルケ氏の本から続けます。

大切なものは、「箱」より「中身」

近年は、仏像ブームのようで、お寺巡りが流行っているらしい。しかし私は、仏像や仏教建築にあまり価値を置いていない。(中略)安泰寺(ネルケ氏の寺)の床の間には、タイのアーティストが溶接した柱やチェーンソーで作った地蔵のようなものがあるが、そこに深い意味があるわけでもない。たとえ本堂の本尊が火事で焼失したとしても、安泰寺から大事なものが消えるとも思っていない。私の代で安泰寺が潰れてもいいと思っている。ただ、仏の教えを弟子たちに守ってほしい。仏の教えが伝われば、その「入れ物」はどうにかなる。伽藍より、大事なものがあるということだ。

仏教の僧侶もそのように考えているのか

私はこれを読んで、仏教の僧侶でもそのように考えている人がいるのかと思いました。私は仏像にも建築にも、それぞれ込められた思いはあるのではないかと思いますが、確かにそれ自体が神だとか、最も大事なものということではないという点においては同感です。大切なことは自己中心を退けて、神様を中心にして生きること。そこに全ての問題の解決、幸いな人生、人間の尊厳、人格的成熟があると思っています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、私たち日本人の生き方、人としての生き方に深い関係があると思います。キリスト教という宗教の教典としてではなく、人として生きるために聖書を参考にしてみてください。

新約聖書 マタイの福音書 12章1~8節

そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」

しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。

あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」

安息日の規定

安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)には一切の仕事をしてはならないとモーセの十戒にあり、ユダヤ教では様々な規定が設けられていたようです。これは麦の穂を摘んで食べるという行為が仕事にあたるということでパリサイ人(ユダヤ教の学者)から非難を受けたという出来事だと思います。

大切なことは宗教ではない

しかし、イエスは聖書の教えから言っても、それは違うということを言われたのだと思います。大切なことは「あわれみ」であって、宗教ではないと教えられたのだと思います。神様を中心にして生きるとは、宗教の戒律を守るということではありません。大切なことは確かに「箱」ではなく、「中身」だと思います。自己中心を退けて、良心に語り掛けられる神様の声に従って生きるということ。イエスはそのように教えたのではないでしょうか。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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