それぞれの役割分担が明確になっていれば、不要な衝突を避けることができるかもしれません。役割分担は夫婦によってそれぞれだと思いますが、今日は「夫婦関係修復講座」というサイトから、「夫婦円満に欠かせない役割分担」という記事をご紹介いたします。参考にしてみてください。
いろんな意見があるとは思いますが
基本的に夫はリーダーです。そして妻はサポート担当です。こんな話をすると「これは女性差別だ」とか「私の夫はリーダーシップはとれない人だからリーダーは私の方が向いている」などの意見もあるかもしれませんが、今フォーカスしたいのは、いかに夫婦関係を良い状態にできるかです。
家庭という組織の中で
何か問題が起きたときには最終的な決定や判断を下すことを夫は求められています。でも独裁的であってはいけません。横暴な独裁者のもとでは国民が幸せになれないのと同じです。横暴で独裁的な夫のもとでは家族は幸せになれないのです。
良いリーダーとは
何かを決定する時には必ず妻に相談し妻の声に耳を傾けます。これこそ真のリーダーです。社員の声にいつも耳を傾けてくれる上司にこれからも精一杯サポートしたいと思うのと同じ気持ちを妻にも抱かせることができるでしょう。
妻の役割
夫をサポートする側なので見下げられているとか立場が低いので差別だといった見方はやめておきましょう。みんながリーダーになろうとすればどんな組織も成り立たないからです。「私の方が有能だ」そう思われる女性も多いかもしれませんが、会社などの組織も有能なのは社長よりも社員の場合が多いのです。いかに上手にサポートできるかで組織は良くもなれば悪くもなるのです。
妻の真価が問われる時
それは夫と意見が合わない時です。自分の意見を通そうとしてリーダーの座を実質的に奪おうとしてしまうなら、家庭は崩壊します。むしろ自分の意見を上手に優しい口調で夫に伝えることは良いことです。でもその意見が聞き入れられないこともあるでしょう。その場合は、夫の意見を尊重し精一杯サポートするようにしましょう。(もちろん、夫が全財産をギャンブルにつぎ込もうとするならサポートするのは間違っています。)
どんな価値があると思いますか?
もし夫が妻の声よりも自分の考えを優先し、下した決定が間違っていることに気がつくとします。その決定を一生懸命サポートしてくれている妻の姿を夫は見ます。夫はどう感じるでしょうか。きっと妻のことを誇りに思うでしょう。この女性を幸せにしなければと新たな決意を抱くはずです。
男女平等
こうした単純なお互いの役割ですが、実際に意識して実行してみるなら多くの良い結果を経験できるでしょう。なぜこの感覚が現代社会の中で薄れてきたのかご存知ですか?「男女平等」この言葉の影響です。この考えはもちろん素晴らしいと思います。差別されるべき人間なんていないからです。でもこの「男女平等」を間違って夫婦関係に当てはめるようになった結果、夫に代わってリーダーになろうとする妻が増えたり、逆にリーダーシップを妻に任せる夫が増えるようになりました。
さてあなたの夫婦の役割はいかがですか。(サイトからの引用は以上です。)
神様を中心にする
「男女平等」の正しい意味は、神様の前に男も女も平等であり、何の差別もないということだと思います。夫婦関係に当てはめても意味は同じだと思います。しかし、それは決して役割も同じということではないと思います。具体的な役割分担はそれぞれの夫婦、それぞれの家庭で良いと私は思いますが、神様を中心に考えるなら、男と女にはそれぞれの役割があると思います。神様を中心にして、それぞれの役割分担を確認してみると良いのではないでしょうか。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は日本人の生き方に深い関係があると考えられます。キリスト教の教典としてではなく、自己中心を退け、神様を中心にして生きる幸いを知るために聖書を読んでみていただきたいと思います。
新約聖書 マタイの福音書 13章24~30節
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国(みくに)は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々が眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
良い麦と毒麦のたとえ
確かにこの世界は、良い麦も悪い麦もそのままになっているように見受けられます。神様を中心にしないで、悪いと分かっていながらも自己中心の生活をしている人が、神様を中心にして正しく生きようとしている人よりも繁栄し、幸せそうに見えることさえあるかもしれません。
私たちが行って抜き集めましょうか
しかし、ちょっと待ってください。「あれは毒麦だ。抜きましょうか」と言っているのは誰でしょうか。人のことをとやかく言う前に、自分はどうなのかと振り返る必要もあるかもしれません。そのままにしていただいているのは神様の哀れみなのかもしれません。
神様を中心にする幸い
私は神様を中心にして正しく生きる人は必ず祝福を受けると思いますが、仮に物質的な祝福がなかったとしても、正しく生きること自体が祝福ではないかと思います。「我が人生に悔いなし」という人生を送ることができる幸いは何ものにも代えがたいと思います。
いかがでしたか
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「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。
今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。