日本人の死生観には「死は穢れ」という概念がある。これは仏教の概念ではないと元クリスチャン(プロテスタント)のドイツ人で現在は曹洞宗の住職であるネルケ無方氏は指摘していらっしゃいます。その著書「日本人に『宗教』は要らない」からご紹介いたします。
日本の神道では死は穢れ
日本の死生観で興味深いところは、生と死を明確に分けず、つながっているような感覚を持つ半面、「死は穢れ」という概念があることだ。これは神道の影響だろう。
日本人の習慣
家族や親族が亡くなった際、家の神棚の前を半紙で隠したり、「4」という数字を嫌ったり、喪中の年に年賀状や新年の挨拶を控えたり、日本社会では長年、死を象徴するものはタブーとされてきた。葬式に出席した際、帰宅し家に入る前、自らの体に塩をかけることなども、習慣化されている。
欧米人には理解し難い感覚
しかし、神棚を半紙で隠して何の意味があるのか。欧米人には理解し難い感覚だ。神棚に神が宿ること自体、半信半疑であるし、仮にそこに神様が宿っているのであれば、半紙を貼ったくらいで目隠しになるはずがないと、思ってしまう。
死ぬことは神仏の仲間入りではないのか
日本人は亡くなった人が「ホトケになる」と言うが、その「ホトケ」も三十三回忌、もしくは五十回忌が過ぎれば、昔のご先祖様と一体となった神としてその家を守ると信じられてきた。そもそもそういう神であるならば、人の死を受け入れるはずではないか。死ぬことは、神仏の仲間入りだったはず。(中略)
仏教には「死は穢れ」という概念はない
また、神道では死はタブーとされるようになったため、葬式は仏教が執り行うようになったとされている。仏教では出発点が無常であり、生まれるのも無常、年をとって死ぬのも当たり前だ。死はどんなにあがいても逃れられないことで、それが現実だとしている。だから仏教には、本来「死は穢れ」という概念はない。(中略)
生きるも死ぬも仏の命
仏教の本来の考えでは、死んでから「ホトケ」になるのではなく、生きるのも死ぬのも、そのまま仏の命にほかならない。だから生のみを尊いものとし、死を忌まわしいものとは考えない。生も死も、仏の命として背中合わせの働きだから。(本からの抜粋引用は以上です。)
ユダヤ人の信仰の影響
「死は穢れ」という日本人の死生観は神道の影響だろうとネルケ氏は指摘しています。少なくとも仏教の考えではないと言ってます。それはもともと聖書から来たものであり、ユダヤ人の死生観から来たものだと私は思います。聖書には「死は穢れ」であると記されています。それが古代日本に伝えられ、神道を通して日本人の考えに影響を与えたのだと私は思います。
それは理屈ではない
神棚を半紙で隠して何の意味があるのか、死んで神仏となるのであれば、なぜ死が穢れなのかと欧米人は物事を理屈で考える傾向があるのだと思いますが、日本人にとって、それは理屈ではないと思います。それは習慣の問題であり、気持ちの問題なのではないでしょうか。
神様を中心にするという本質
もちろん、日本人の価値観はユダヤ人や聖書の影響だけでなく、その後、様々な影響を受けて今日のような習慣や価値観が形成されていて、確かに曖昧になっているところもあると思います。その本質は、自己中心を退けて、神様を中心にして生きるということを確認するのは大切なことだと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、日本人の信仰の原点でもあると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の文化、伝統、信仰の本質を知るために聖書を読んでいただきたいと思います。
新約聖書 マタイの福音書 15章29~31節
それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。
イエスを求める群衆
イエスを求める者が多くいたことが分かります。彼らはイエスにいやしを求めていました。イエスにはそれが出来ると彼らはどこかで聞きつけて集まって来たのでしょう。そのようなイエスの噂が広まっており、ガリラヤ湖周辺では知らない人がいないという状況だったのかもしれません。
イエスは彼らをいやされた
口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、盲人が見えるようになるのを見て人々は驚いたとあります。噂には聞いていたと思いますし、いやしを求めてやって来たのですが、本当にいやされるのを目の当たりにした時、やはり彼らは驚いたのだと思います。それは当たり前のことではなく、超自然的な神様の力がイエスを通して働いていたということだと思います。
神様をあがめる
今日、目に止まったのは「そして彼らはイスラエルの神をあがめた」と書いてある言葉です。彼らはイエスではなく、神様をあがめました。これは神様の力だと群衆は思ったのかもしれません。イエスがそう教えたのかもしれません。大切なことは神様をあがめ、神様を中心にして生きることであり、イエスはそのように教え、本当に神様は働いていることを示すために、いやしを行ったのだと思います。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。