【日本人と日本文化】譲り合いの精神とリーダーシップ

ミニカー

ドイツ人から見た日本人の特質について、ネルケ無方氏の著書「日本人に『宗教』は要らない」から抜粋してご紹介いたします。

日本人の譲り合い

十字路の交差点で、同じタイミングで左右(90度の角度)から自動車が来たら、どちらが優先か。優先表示がなかった場合、日本の道路交通法では左方優先と決まっている。自動車免許を持っている人は知っているだろうが、免許を持たない人では知らない日本人が多い。知らなくても成り立つのが日本の交通だ。日本人は相手の様子をうかがい、場合によっては両方とも止まったりすることがある。だから、このルールを知らなくても問題はない。

ルールと権利の主張

ドイツの場合は、反対の右方優先だが、それは子供でも知っている常識だ。まず、小学生は自転車に乗れるようになった時点でこのルールを覚える。右方優先は自動車も自転車も同じなので、交通ルールとして覚えなくてはいけない。右から来たものが、子供の乗った自転車でも、自動車のほうが止まる。自転車であろうが自動車であろうが権利は同じだ。ドイツでは、自分が優先の右方の場合、絶対相手のために止まらない。それが自分の権利だからだ。(中略)

調整するリーダー

日本の総理大臣は、みなの意見を聞き、みなが納得できるように調整する。しかしそれは、欧米の感覚ではリーダーの役割ではない。「嫌われても自分の主張を通すのがリーダーの役割だ」と考えるのが欧米人だ。(中略)やはり、日本人は一匹狼ではなく、調整する人を好む。(中略)欧米では、一匹狼的な人のほうが格好いいとされる。選挙でも票が集まる。(中略)

自分を主張すること

日本人が子供っぽく見えてしまうのは、自分の時間、自分を持つということを学んでいないからであろう。あるいは、学校教育で自分らしさを教えてもらってないからかもしれない。自分らしさとは自ずと湧いてくるものではなく、そうしたスキルを子供のころから教えてもらわないと身につかないものだ。

個が強すぎるのも問題

しかし、欧米のように個が強すぎるのも問題だ。一匹狼を重んじ、他人はみな敵だとする西洋文化では、たくましくなければ生きていけない。他者を思いやる余裕がなくなり、争い事が多くなりがちである。(本からの抜粋引用は以上です。)

どちらが子供っぽいのか

欧米人であるネルケ氏から見ると、自分の意見をあまり主張しない日本人は子供っぽく見えるということですが、逆に日本人からすれば自分の意見や権利ばかり主張する欧米人は子供っぽく見えると思います。それはどちらの方が大人なのかということより、文化的な違いなのでしょう。それでも、慎み、奥ゆかしさ、遠慮といったものは高い人格からもたらされるものだと日本人である私は思ってしまいます。

イエスが教えた生き方、日本人の心

もちろん、自分の意見や権利の主張をすべき時もあると思います。しかし、もっと気高い目標のために、人との和を重んじ、自分のことは神様にお任せして生きる。それが日本人の心であり、イエスが教えた生き方だと日本人である私は思います。そのように、日本人が聖書を読めば、欧米人とはまた違う理解があると私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、私たち日本人の心だと思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心に触れるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 21章23~27節

それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。」

すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」

そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」

何の権威なのか

「これらのこと」とは、イエスが神殿で商売をする人たちを追い出し、人々に教えていることを指しているのでしょう。それは何の権威でしているのか。ユダヤ教の正式な教師としての資格があるのかということでしょうか。しかし、神様の前に何が正しいことなのかということは、資格の問題ではなく、それぞれが良心で判断することではないでしょうか。イエスはそう問い返したのではないでしょうか。

神様の願い

自己中心を退けて、神様の思いを中心にして生きること。それが神様の願いだと私は確信しています。しかし、人はそれを宗教にし、人間中心のものにしてしまったのではないでしょうか。イエスは宗教ではなく、神様を中心にすることに気づかせようとしたのではないでしょうか。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いを多くの人たちに知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひ、知り合いの方にもお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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