仲人をされている鎌田れいさんのサイトからご紹介します。鎌田さんのサイトを読んでいると、婚活と仲人はドラマだなと感動しました。「結婚するとは『運命共同体』を結成することだ」という記事を要約抜粋してお伝えします。
結婚?興味ないですよ
祐一は身長180センチメートルの長身、清潔感があり、趣味も悪くない。女性からは好感をもたれるタイプだ。それなのに、「実は、最近まで結婚はもうしなくてもいいかなと思っていたんです」と言う。「35歳を超えると、恋愛事情って一変するんですよね。出会いが格段に少なくなりました」
お前も自分の人生を考えろ
38歳のときに実家に戻った。これも、祐一から恋愛や結婚を遠ざける要因になった。実家に戻ってみると、母親は想像以上に手の焼ける状態だった。病院では、「うつ病」と診断された。あるとき父が言った。「お父さんが仕事を辞めてお母さんの面倒をみるから、お前も自分の人生を考えろ。」祐一は、「今はそんな相手はいないから」と言葉を濁したが、内心結婚したいとは思えなかった。
看病する父の姿
そんな祐一の考えを変えたのは、献身的に看病する父の姿だった。「病気になったり年老いたりした時に支え合えるパートナーがいるっていいなって。もう一度結婚について真剣に考えてみようという気持ちになったんです」
3人の女性とのお見合い
祐一が申し込みをかけたのは36歳の女性と38歳の女性。さらに、41歳の女性が祐一に申し込みをかけてきた。36歳はかわいい系、38歳は美人系、41歳は地味で普通の容姿だった。3人の写真を並べたら、男性の9割が36歳のかわいこちゃんか38歳の美人を選ぶだろう。
祐一が選んだ女性
ところが、お見合いの後、それぞれの女性と何度か食事やデートを重ねていた祐一が選んだのは、41歳の女性だった。祐一はなぜ、41歳の幸枝さんを選んだのか。理由は、こうだ。
お見合いでは、デート代を基本的に男性がすべて持つ。それが暗黙のルールだ。36歳のかわいこちゃんは最初のデートで食事をし終えた時、「あの、お勘定は?」と聞いてきたものの、「ここは大丈夫ですよ」と言うと、それっきり食事をしてもお茶をしてもいっさいお財布を開かず、「ごちそうさまでした」と言うようになった。38歳の美人は食事を終えると、「おいくらですか?」と出そうとする。「ここは大丈夫です」と言うと、「じゃあ、次のお茶は私にご馳走させてください」と言って、お茶代を彼女が払ってくれるようになった。41歳の幸枝は食事を終えて、「ここは大丈夫です」と言っても、必ず金額の半額に近い千円札を、「取ってください」と出してきた。
やさしさにジンときた
「ある時、幸枝さんに会社が残業続きで、すごく疲れているという話をしたんです。そしたら次のデートの時に、このアロマオイルは、疲れにきくんですよと小瓶に入ったオイルを持ってきてくれた。それを僕の手に塗って、こうやってハンドマッサージをすると、疲れが取れるんですと、マッサージしてくれたんです」それが本当に気持ちよかったし、やさしさにジンときたという。
運命を共にできるのは
「結婚って、楽しい時ばかりじゃない。うつ病になった母親を献身的に親父が介護している姿をみて、これが夫婦なんだな、結婚もいいもんだなと思った。だから始めた婚活だったのに、結局見た目や年齢にこだわって相手を選んでいる自分がいた。どんな人と結婚したら、いちばん幸せになれるのか。ハンドマッサージしてくれている幸枝さんの姿をみた時に、彼女なら僕をずっと大事にしてくれる。結婚するならこの人だと思ったんです」(サイトからの引用は以上です。)
神様の思いに気づいた瞬間
結婚するにしても、しないにしても、本当の幸せは自己中心を退けて、神様の思いを中心にすることだと気づいた出来事なんだろうと私は思います。人は人生の様々な局面を通して、そのことに気づく人もいれば、気づかない人もいるのでしょう。どうぞ元サイトの全文も読んでみてください。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、日本人の信仰と生活のルーツだと思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きることを知るために聖書を読んでみてください。
新約聖書 マタイの福音書 22章15~22節
そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとにやって、こう言わせた。
「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
彼らの魂胆
カイザルとはローマ皇帝のことです。当時、ローマの統治下にあるユダヤ人にとって、ローマに税金を納めることには反感があったと思います。そのような背景の中で、ローマに税金を納めることは神の律法に反するという言葉を引き出し、イエスをローマに対する反逆罪で訴えようという魂胆だったのではないでしょうか。
神様を中心にするとは
しかし、イエスの答えは彼らの予想に反するものでした。彼らはユダヤ人を中心にすることはローマと相容れないもののように考えていたのだろうと思います。しかし、神様を中心にして生きるとは、どちらかに組する主義主張ではないことを思わされます。自己中心を退けて、神様を中心にするなら、ユダヤもローマも全世界が一つになることができるのだと思います。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。