【人生の目的】「幸せ」とは何か

今日は「幸せの意味を理解する!ぶれない軸を作る幸福の定義」という記事をご紹介しながら、「幸せ」について考えてみたいと思います。

幸せの定義

経済力=幸せ?国民総幸福度という幸せ調査で、よくブータンが1位になる。経済的にそれほど発展しているとは言えない。経済と幸せは無関係に思える。

煩悩がなくなれば幸せか。悩みがあっても幸せな人はいるだろう。悩みがないという悩みもありそうだ。煩悩と幸せはきっと無関係だろう。

後悔しない人生は幸せか

オーストラリアの看護士Bronnie Ware氏が、死ぬ直前の患者の後悔をまとめた。

1. 自分自身に忠実に生きなかったこと
2. 家族との時間をあまりとれなかったこと
3. 自分の気持ちを表す勇気を持てなかったこと
4. 友人関係を続けなかったこと
5. 自分をもっと幸せにしてあげられなかったこと

これらすべて実行していたら幸せになっていたのだろうか?上記は、しなかった後悔ばかりだが、してしまった後悔もたくさんあるはずだ。ただ、その後悔の気持ちと、幸せは別であろう。

感動があれば幸せか

ソフトバンクの孫正義社長は、【新30年ビジョン】の中で、幸せについて、

1.見る感動
2.学ぶ感動
3.遊ぶ感動
4.出会う感動
5.愛し合う感動

と伝えた。感動があれば、幸せか?感動は、一時のモノ。感動が無い平凡な生活は不幸せなのか?

必要とされることは幸せか

ある女性社長は、「幸せ」を次のように定義していた。

1.褒められること
2.お役立ちができること
3.人から必要とされること
4.愛すること、愛されること

たしかに、一見すると、幸せになれるような気もしてくる。

幸せって何?

しかし、ずっと、幸せの事を考える中で気付いた事があった。それは、幸せとは「なる」ものではなく、「である」という状態の事だと。よく人は「幸せになりたい」という。「なりたい」と考えてしまうから、幸せのために疲れてしまうのだ。

マズローは、人の欲求を、生存、安全、愛と所属、認知、自己実現でまとめたが、これらは、「もっともっと」という、果てしない感情が入る底なし沼だ。

では、結局、幸せとは何か。 それは、ずばり、「命がある」という状態の事だ。要するに命あることそれ自体。人生で起きる酸いも甘いも苦みも渋みも、すべてがうまみ。命があるからこそ味わえる。究極の定義かもしれない。(サイトからの抜粋引用は以上です。)

神様を中心に考える

一般的に「幸せ」と言われていることは、本当に幸せなのかを吟味した大変興味深い指摘だと思いました。そして、「必要とされていること」は「幸せ」なのかもしれないという感性にも共感しました。究極の定義は「命がある」という状態と結論付けていますが、私の言葉で言えば、「命が与えられていること」、「生かされていること」と言えます。それは人間の欲求や快適さを中心に考えるのではなく、神様を中心に考える価値観だと思います。それが「幸せ」だと私も思います。皆さんはどう思いますか。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、私たち日本人の価値観に深い関係があると考えられます。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして、今生かされている幸いを知るためにも聖書を参考にしていただきたいと思っています。

新約聖書 マタイの福音書 17章24~27節

また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまづきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

宮の納入金

宮の納入金というのは、今で言えば税金のようなものでしょう。当時、神殿税のようなものが徴収されていたのだと思います。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」と言われて、ペテロはそんなことは言われたくないとばかりに、即座に「納めます」と答えたのでしょう。

神様の子ども

しかし、イエスは「子どもたちにはその義務はない」と答え、自分たちのことを「子どもたち」だと言ったのだと思います。神殿の王とはもちろん神様のことでしょう。つまり、自分たちは神様の子どもたちだから、本来納税の義務はないということでしょう。それはユダヤ教の神殿のことだと思いますが、決してユダヤ教のものではないということでもあると思います。神様は宗教の専有物ではありません。私たちは宗教とは関係なく、みんな神様の子供だと思います。

証しなのか、つまづきなのか

しかし、イエスは彼らにつまづきを与えないために税金を納めるように言いました。納税しないことによって、自分たちこそ神様の子供なのだということを主張することもできたかもしれませんが、それは証しではなく、むしろつまづきになるでしょう。自分の言動は証しになっているのか、つまづきになっているのではないか。それは単なる自己主張なのか、相手への配慮はあるのか、私たちも自分の行動を良く吟味する必要があると思います。

いかがでしたか

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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。