明治大学教授で臨床心理士の諸富祥彦氏の「一人ぼっちでも大丈夫?『友達ゼロ』の人の結末」というタイトルのインタビュー記事がありましたので、一部をご紹介いたします。
友だちがいないのは良くないこと?
「友達がいないのは変な人」という雰囲気が蔓延している気がしますが、「むしろ、いつも誰かと一緒にいないと不安だという方が問題。一人の時間をしっかり持っている人は、自分と向き合い、深い部分で自分が本当はどう生きたいのかよく考えていることが多いから、どんな時も心のバランスを維持することが可能です。」「背景には、日本という国全体を覆う『何事も目立たず、周囲と同じことをしなければならない』という同調圧力があるのだと思います。」と諸富氏は言います。
なぜ日本社会には、そこまで強い同調圧力が存在するのか
「最大の理由の一つは、多くの人が小学校高学年から中学校にかけて体験する集団生活にあると、私は考えています。あの時代、クラスの中はいくつかの“排他的集団”に分かれ、子供たちはいずれかの組織に属さなければ平和な学校生活を送れません。そして、安定して集団に属するためには、とにかく『周りと同じであること』が要求される。『周りと違うと、どんなひどい目に遭うか』、この時期に多くの人は、無意識のうちに体に叩き込まれて青年期を迎えるんです。」(サイトからの引用は以上です。)
群れたがる日本人は問題なのか
だから、「群れたがる日本人」は問題なのでしょうか。問題の本質を正しく識別する必要があります。問題は集団への依存性であって、集団性や協調性は大事な日本の文化だと私は思います。
神様を中心に個人と集団のバランスを考える
ポイントは個人と集団のバランスだと思います。そして、正しいバランスを持つためには神様を中心にすることが大切です。神様の前にどう生きるのかという個人性をしっかりと確立するためには孤独が必要です。確かに諸富氏の言う通りだと思います。しかし、人のため、社会のため、集団のために生きるという視点がなければ、それはただの個人主義であり、人生は個人の願望の追及に終わってしまいます。
日本人が大切にしてきたもの
神様を中心とした個人と集団のバランス。それは対立するものではなく、両立するものです。人間中心の現代の風潮の中で、本来の集団の意味が失われ、それが個人の欲望を満たす対象や依存の対象となってしまい、その反動として、日本人の集団性そのものが悪いものであるかのように言われたり、個人主義が奨励されるとすれば、大変残念なことです。日本人が太古の昔から大切にして来た文化をもう一度取り戻さなければならないと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、私たち日本人の信仰のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心を取り戻すために聖書を読んでみてください。
新約聖書 マタイの福音書 25章31~46節
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
「世の終わり」について
「世の終わり」について、弟子たちの質問に答えて言ったイエスの言葉の続きです。この箇所でイエスは2つのことを言っているように思います。一つは、「世の終わり」とは、私たちがどのように生きたのかが問われる時だということ。もう一つは、それは日常の小さな一つ一つの出来事において、どのように生きたのかということ。
何が問われているのか
それは明らかに何か特定の宗教を熱心に信仰したかどうかということではありません。それは本人がそれと気づいていなかったとしても、実際にどう生きたのかということが問われるということだと思います。いつも自己中心を退けて、神様の願いや思いを中心にして正しく生きることだと思います。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。