【キリスト教・宗教】ある僧侶との対話

ぶどうの木

先日、ある方の紹介で日蓮宗の僧侶とお話しする機会がありました。意気投合して、あっという間に3時間半が過ぎていました。

読経600キロの行脚

この方は東日本大震災直後、僧侶として出来ることは何かと考え、被災地を供養して回ったと言います。そして、震災から100日目の6月18日、仲間の僧侶とともに、関東の被災地の千葉県成田市を出発し、太平洋沿いを北上しながら、がれきの中で読経をささげ、被災者の声に耳を傾け、30日には約600キロに及ぶ旅の終着地である岩手県宮古市の浄土ヶ浜を目指したそうです。

どれだけ良く生きることが出来るか

「今回は、テントと寝袋を持ち、玄米や梅干しなどの食料を持ち、ナベ釜を持って自炊しながら歩くスタイルを取りました。実際、放射性物質による被爆の可能性もあり、普段の行進の時よりも、かなり過酷でリスクの大きいものでした。実際にある方からも、『お題目を唱えたって被爆はするんですよ』とご心配を頂きましたが、元来仏教は、我々に生き方を示して下さっている教え。生はいつか必ず死を迎える。いつ死ぬかなど誰にも分からないなら、今、生きている内にどれだけより良く生きることが出来るかに目を向けるべきだと私は思う。」という言葉に深く共感しました。

宗教の違いではなく、どう生きるかが大切

私ももともとはキリスト教の牧師だった訳ですから、日蓮宗とキリスト教の教義の違いということであれば、もちろん違いはあるだろうと思います。しかし、大切なことは宗教や教義の違いではなく、その人がどう生きているのかということだと私も思います。イエスもまた弟子たちにこのように教えた言葉が聖書の中に記されています。

実によって見分ける

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(新約聖書マタイの福音書7章15~20節)

共感と一致

本物か偽物か、それは宗教や教義の違いではなく、その人がどう生きているのかという実によって見分けるもの。この点においても私たちは「全くその通りだ」という思いを共有することができました。

僧侶と牧師の人生対談

話はとても盛り上がって、近いうちに「僧侶と牧師による人生対談」のようなことを開催したいですね、という話になりました。具体的に決まりましたらご案内させていただきます。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心に触れるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 26章1~5節

イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。

過越の祭り

「過越の祭り」とはユダヤ教の祭りで、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの人々が神様によって救い出された出来事を祝うお祭りです。この祭りでイエスは十字架につけられることになると言いました。

イエスを殺すことを正当化できるのか

そのころ、ユダヤ教の中心的な人たちはイエスを殺す相談をしていたとあります。彼らはイエスを殺すべきであり、それは正しいことだと考えていたのでしょう。しかし、彼らの間で、たとえどんな理由をつけることができたとしても、犯罪を犯している訳でもない、むしろ神様を中心にして正しく生きることを教えるイエスを殺すことを正当化することはできないと思います。

そんな宗教を正当化できるのか

そのような宗教や教義を正しいとすることは出来るでしょうか。私は決してできないと思います。「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」その通りではないでしょうか。

いかがでしたか

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心にして生きる幸いを多くの方に知っていただくために、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。ぜひお知り合いの方にお渡しください。ご協力をよろしくお願いいたします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA