以前にも古代ユダヤ教の契約の箱とお神輿の類似性についてはお伝えしましたが、その周辺の習わしにも類似点があるようです。日本ユダヤ教団のラビ(教師)として10年以上日本で過ごした経験のあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介いたします。
川を渡るお神輿
京都の祇園神社では、毎年、祇園祭のときに男たちがお神輿をかついで川に入り、川を渡る。こうした光景は私には、かつてイスラエル民族の出エジプトのあと、祭司たちが契約の箱をかついでヨルダン川を渡ったという出来事の絵に見えてならない。
「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(旧約聖書ヨシュア記3章11、13節)
身を清める男たち
先日、日本のテレビを見ていると、瀬戸内海のある島の祭の様子を映していた。その島では、お神輿をかつぐ役目を得た選ばれた男たちが、一週間にわたって一つの家に泊まり込み、共同生活をするのだという。これは、汚れから身を遠ざけるためだという。そして、いよいよお神輿をかつぐ前日になると、彼らは海に入って、身のお清めをするのである。これはまさに、古代イスラエルの祭司たちが行ったことと同じである。
「祭司たちとレビ人たちは、イスラエルの神、主の箱を運び上るために身を聖別した」(旧約聖書Ⅰ歴代誌15章14節)と聖書に記されている。
お菓子を配る風習
聖書はまた、ダビデは契約の箱をエルサレムに運び入れたのち、それを天幕の中に安置し、「イスラエルのひとりひとり皆に、男にも女にも、それぞれ、丸形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた」(旧約聖書Ⅰ歴代誌16章3節)と記している。
日本でも、祭の参加者である氏子には、お菓子が分け与えられる。このようにユダヤ人は、日本の祭を見るとき、そこにあたかも古代イスラエル人の風習を見る思いとなって、あるときは郷愁さえ感じるのである。
日本とイスラエルだけにある風習
世界中どこを探しても、契約の箱にこれほどよく似ているものを持っている所は、日本以外にはないであろう。日本のお神輿は、イスラエル人が持っていた契約の箱の記憶の名残ではないか、と思えてくるのである。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、私たち日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心に触れるために聖書を読んでみてください。
新約聖書 マタイの福音書 26章20~25節
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。
ユダに語り掛けるイエス
イエスはイスカリオテ・ユダがイエスを裏切ろうとしていることを知っていたのでしょう。皆の前で名指しすることはしませんでしたが、あなたがたのうちひとりが裏切ると警告しました。良心の声を聞くなら、それは良くない事だとユダには分かったのではないでしょうか。しかし、ユダは良心に語り掛けられる神様の声を聞こうとしなかったのではないでしょうか。
はっきり「そうだ」と語るイエス
まさか自分のことを言っている訳ではないと確かめる思いもあったのでしょうか、ユダは「まさか私のことではないでしょう」とイエスに言いました。しかし、イエスは彼にはっきりと「いや、そうだ」と言われました。
何を中心にするのか
私たちもまた神様を中心としないで、自分を中心にしていることがあると思います。神様は、それは正しくないことだと私たちの良心に何度も語り掛けてくれるのではないでしょうか。どちらを中心にして生きるのか。それは人生を大きく変えてしまうことになるのではないでしょうか。
ユダにもチャンスはあった
神様は全ての人の心に語っていると思います。それは宗教とは関係ないと思います。その声を聞いて、神様を中心にすること。自己中心を退けること。それが救いであり、幸いな人生であると思います。誰でもその喜びを手にすることができるのだと思います。ユダにもまだチャンスがあったはずだと思います。
いかがでしたか
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今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。