【日本とイスラエル】神道と古代ユダヤ教の類似性

神官

神道と古代ユダヤ教の類似性について、かつて日本ユダヤ教団のラビ(教師)として日本で10年過ごしたマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介しています。今日は神官の服、祭の踊り、お祓いについてです。

イスラエルの祭司と日本神道の神官の服

「ダビデは、白亜麻布の衣をまとっていた。・・・歌うたいであるレビ人全員も・・・白亜麻布を身にまとっていた」(旧約聖書Ⅰ歴代誌15章27節)

古代イスラエルにおいて、ふつうの一般祭司たちの衣は白で、シンプルであった。日本神道でも、神聖な儀式の祭には、みな白無垢の服を着用している。日本神道では白が最も神聖な色とされている。

日本神道の神官が着るこの白い祭司服には、袖のところに「房」(糸を何本か垂らした飾り)がついている。これは古代イスラエル人の風習と同じである。

日本神道の神官は、肩から膝のあたりまで、体の前後にかけて長方形の布をかぶっている。そして腰のあたりを、帯で締めてとめている。これはイスラエルの祭司たちが着た外衣、または「エポデ」によく似ている。

古代イスラエルの祭司は帽子をかぶっていたが、日本神道の神官も帽子をかぶっている。神官の袴や帯も、古代イスラエルの祭司のものに似ている。

また、聖書によると古代イスラエルの祭司は「ウリムとトンミム」と呼ばれる、神託を得るための一種のくじを持っていた。一方、日本神道の神官は「笏(しゃく)」と呼ばれる木片を手に持っている。

ダビデの裸踊り

ハッピに鉢巻の身軽な服装の男たちが威勢よく「ワッショイ、ワッショイ」と言いながらお神輿をかつぐことも多い。ときには半分裸の者たちもいる。こうした光景は、かつてのダビデ(イスラエルの王)の踊りを思い起こさせるものである。ダビデは、いつも着ている豪勢な王服を脱ぎ、神の箱の前で踊った。

お祓いはイスラエルの風習に似ている

日本神道の祭司は、榊の枝をサーッ、サーッと左右に揺り動かして、お祓いをする。棒の先に白い紙をつけたものですることもあるが、昔は植物の枝や穀物が用いられた。これは今もユダヤ人が続けている風習である。

ある日本人女性は、ユダヤ人の祭に参加する機会を得た。彼女はまだ、その祭の中で何をやっているのかも、よくわからなかった。しかし祭の中でラビが、植物の束を手に持って、それを左右上下に揺り動かした。すると彼女は、「あっ、これは神社の神主がしていることと同じだ。ここに日本人のふるさとがある」と思ったという。(本からの抜粋引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、私たち日本人の信仰と習慣のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心として生きる日本人の心に触れるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 26章69~75節

ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。

そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない」と言った。

しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓い始めた。

するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

イエスを知らないと言うペテロ

誰でもこのような弱さを抱えているのかもしれません。ペテロは恐怖心で怖気づいてしまったのでしょうか。命をかけてもイエスと共に戦うつもりでしたが、同じ人でも状況や環境によって弱気になってしまうこともあるのかもしれません。イエスが対決ではない道を進んだので、ペテロはどうしたら良いのか分からなくなってしまったのかもしれません。

ペテロは普通の人だった

少なくとも、ペテロは決して誰も真似できないような勇者だった訳ではなく、私たちと同じ弱さを持った普通の人だったということではないでしょうか。イエスと寝食を共にしながら3年半生活し、自己中心を退けて、神様を中心にして生きることを教えられたのではないかと思いますが、それでもペテロは相変わらず弱さを持った普通の人だったということではないでしょうか。

頭の理解だけでなく

神様を中心にした生き方を頭で理解することと、実際に生きることはすぐに結びつくものではないのかもしれません。それぞれの人生経験を通して深められていくのではないかと思います。

 

いかがでしたか

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

「【日本とイスラエル】神道と古代ユダヤ教の類似性」への2件のフィードバック

  1. 人物埴輪の中に
    ユダヤ人の特徴を捉えたものが多数存在しているという。
    ユダヤ人が実際にどんな格好をしているのか、ネットで探しているうちにここに辿り着きました。

    1. お返事が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。コメントをありがとうございます。私自身は歴史の専門家でも研究者でもありませんが、多くの本を読んで調べてみると、古代日本にイスラエル系渡来人があったことは間違いないと考えています。そのような日本の文化、伝統、価値観、信仰を大切にして欲しいというのが私が伝えたいことです。日本人も急速に自己中心に向かっているようですが、神に喜ばれる生き方こそが本当の幸せだと思います。

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