「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」という総合結婚情報誌ゼクシィの新CMのキャッチコピーがネット上で話題になっているそうです。「『結婚しなくても幸せになれる時代、私は…』ゼクシィCMに共感の声」という記事をご紹介します。
共感の声が続々
「ゼクシイがこれを言ったのは偉い」「結婚最高と賞賛しつつ、非婚も否定しない。比較しているようで比較していない」「結婚=幸せじゃないよね?って言葉にはしないけど、薄々みんなが思ってたことを言語化して、それでも結婚って尊いよねと結婚の価値を爆上げしてる」「多様性を意識した前置きはさることながら、私とあなたの二者間のことなんだ、っていうのが配慮でもありロマンチックでもあり」
編集長に聞きました
――今回のCMで伝えたかったメッセージは
「たくさんの人の中からふたりが出会い、一緒に生きていきたいと決める。そして見守る人々がそんなふたりを応援する。とてもシンプルで幸せなできごとを、まっすぐに届けたいと考えました」
――他社CMの「炎上」事例などが目立つなか、今回のCMはどのような点が受け入れられたと考えますか
「多様な生き方・それぞれの価値観による幸せが、世の中に広がっているということを改めて実感しています。そうした点に共感していただけたのではないでしょうか」
――これからのゼクシィが目指すこととは
「多様な生き方が当たり前になり、幸せのかたちも多様化しています。そのことをきちんと感じながら、結婚による幸せを応援していきたいと考えています」
(記事からの抜粋引用は以上です。)
聖書には何と書いてあるのか
新約聖書の中の多くの手紙を書いたパウロという人は生涯独身でしたが、できれば独身の方が良いと勧めてもいます。また、イエスも生涯独身で、神の国のために独身を選ぶことができるなら、その方が良いけれども、誰もがそうできる訳ではないとも言ったと書いてあります。しかし、旧約聖書を見ると、神様はアダムがひとりでいるのは良くないと言って、エバを造り、神様は人を結婚するものとしたことも記されています。
多様な生き方があって良い
確かに最近では日本でも生涯独身という人が増えているようですが、独身者への風当たりはない訳ではなく、本当に多様な生き方が当たり前になっているのか疑わしいという気もします。むしろ、このCMは多様な生き方があって良いとメッセージしたところに共感の声が寄せられたのかもしれません。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書を読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の歴史の記録であり、実は私たち日本人の信仰のルーツでもあります。大切なことは自己中心を退け、神様を中心にして生きることであり、結婚するか、しないかはそれぞれが決めれば良いことだと思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心として生きるために聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 1章1~8節
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書に、
「見よ、わたしは使(つかい)をあなたの先につかわし、
あなたの道を整えさせるであろう。
荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と書いてあるように、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
メシヤが来る
やがて、「メシヤ」が来るという預言が旧約聖書には記されていました。「メシヤ」とは「油注がれた者」という意味であり、神様からの特別な権威が与えられた者という意味です。ギリシヤ語では「キリスト」と言います。イエスこそ旧約聖書が預言したメシヤ、キリストだと、マルコという人はこの福音書で言おうとしているのだと思います。
バプテスマのヨハネ
イザヤはB.C.8世紀頃の預言者です。メシヤが来る前に、使いが来るとイザヤは預言しましたが、マルコはバプテスマのヨハネがそれだと言っています。バプテスマとは水の中に体を沈めるという宗教的な儀式ですが、日本でも古くから水で汚れを清める宗教儀式があります。今では神社の手水舎で口と手だけをすすぎますが、本来は川の中で全身を水に浸して清めたそうです。
罪のゆるし
バプテスマのヨハネは罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていたとあります。「罪」とは「的外れ」、「中心が違う」という意味であり、「悔い改め」とは「方向を変える」、「中心を変える」ということです。自己中心は的外れであり、中心を神様に変えるなら、罪がゆるされることをバプテスマのヨハネは宣べ伝え、その清めの儀式を行っていたということです。
いかがでしたか
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