【日本とイスラエル】金の鈴、お辞儀、注連縄

神社の鈴

日本の神社と古代ユダヤ教の類似点について、日本ユダヤ教団のラビとして、日本で10年以上過ごしたことのあるマービン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。

金の鈴

日本の神社では、金の鈴を鳴らしてから、その前で祈る。これは古代イスラエルの風習を思い起こさせる。聖書によればイスラエルの大祭司の衣のすそには、「金の鈴」がついていた。それは彼が聖所に入り、そこで祈祷や奉仕活動をするとき、その音が聞こえて、彼が死なないためであった(旧約聖書出エジプト記28章33~35節)

柏手

神社の参拝者はまた、神前で祈るときに二度手をたたく(柏手)。聖書によれば、古代イスラエルにも、手をたたく風習があった。聖書中、二ヶ所で「誓う」と訳されている言葉は、原語のヘブル語では「手をたたく」である(旧約聖書箴言6章1節、旧約聖書エゼキエル書17章18節)。

深いお辞儀

神社の参拝者は、神前で祈るときに深くお辞儀をする。お辞儀というのは、古代イスラエル人の風習であった。今日も、ユダヤ人はシナゴーグで祈るとき、ラビはトーラーの前で頻繁にお辞儀する。聖書には、イスラエル民族の父祖ヤコブが、兄エサウに二十年ぶりに会うというときに、深くお辞儀をしたことが記されている(旧約聖書創世記33章3節)。今日のユダヤ人の多くは、こうした挨拶としてのお辞儀をしないが、ユダヤ人が古くから移り住んでいたエチオピアには、このお辞儀の風習が今もある。エチオピア人のお辞儀は、日本のお辞儀と全く同じである。

注連縄(しめなわ)

神社にいくと、神域には注連縄が張ってある。これは縄のところどころに白い紙―紙垂(かみしで)をたらしたもので、聖と俗を区別する境界である。注連縄の内側は聖域、神域なのである。このような風習は、今日のユダヤ教にはない。しかし、その考え方自体は非常にユダヤ的とも思える。かつてモーセは、シナイ山に登って十戒を授かろうとしたとき、民が山に近づいて死なないように、山の周囲に、「境を設けた」(旧約聖書出エジプト記19章12節)と聖書に記されている。その境がどんなものであったか聖書は記していないが、縄か何かが張られたに違いない。もしかすると日本の神社の注連縄は、その記憶に基づくものなのかもしれない。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、日本人の信仰に深い関係があることが分かります。キリスト教の教典としてではなく、日本人として、神様を中心にして生きるために聖書を読むことが大切です。

新約聖書 マルコによる福音書 4章21~34節

イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると、大ぜいの群衆がみもとに集まってきた。イエスは海べにおられた。そこへ、会堂司(かいどうづかさ)のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。

さてここに、十二年間も長血(ながち)をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。

この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた。

イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。そこで弟子たちが言った、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」。

しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。その女は自分の身に起こったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。

「せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただける」

そう考えて、この女性は群衆をかき分けて、イエスのうしろに近づき、その衣にふれたら、たちどころに病気が治ったと記されています。イエス自身が意図して、神様の力を行使しなくても、神様の力が働いたということだと思います。イエスはそれを「あなたの信仰があなたを救った」と言いました。

人間中心を退け、神様を中心にする

イエスの周りにはおびただしい群衆がいて、イエスの衣にふれる人はたくさんいたのではないでしょうか。しかし、この女性のふれ方はそういう他の群衆とはちがいました。人には出来ないことであっても、神様にはできる。神様にできないことはない。そうやって人間の思いを退け、この女性は神様を心の中心においたのでしょう。イエスはそれが信仰だと言われたのだと思います。大切なことは神様を中心にして生きるという信仰だと思います。

中味はもっと大切

日本の文化、神社などを見れば、そこに古代ユダヤ人の影響、聖書の信仰の影響を見ることができると思います。しかし、形よりもっと大切なことは、その中味である信仰だと思います。日ごろ、どれだけ生き生きと神様を意識して、神様を中心にして生きているでしょうか。それは何かの宗教を信仰することではありません。この女性のように神様を中心にして生きること、神様に期待することだと思います。

いかがでしたか

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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