【日本とイスラエル】日本神道と古代イスラエルに共通する観念

手水所

日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介いたします。

死者の汚れの観念

日本神道の重要な特徴は、死者の汚れ(穢れ、忌み)の観念を持っていることである。死人を出した家や、葬式に参列した人などは、「汚れに触れた」と言われる。欧米人には、このような「汚れ」の観念はない。

それは古代イスラエルと共通する観念

この「汚れ」は物質的な汚れではなく、宗教的、儀式的な汚れである。こうした日本神道の死者の汚れの考え方は、古代イスラエルにあったものと同じである。「どのような人の死体にでも触れる者は、七日間汚れる」(旧約聖書民数記19章11節)と聖書に記されている。日本神道でも同様に、家族に死人が出たときや、親族に死人が出たとき、一定期間「汚れている」とみなされている。この期間には、人は神社に参拝することもできない。古代イスラエルでも、汚れの期間にある人は神殿に来ることを許されなかった。

仏教にはない観念

仏教の葬儀は寺の中で行われるが、神道式の葬儀は、必ず神社以外の場所で行われる。それは汚れを神社内に持ち込まないためである。また葬儀に参加した神主は、葬儀に用いたものを境内に持ち込まない。たとえ持ち込む場合でも、必ず禊ぎ(みそぎ)をして清めてから持ち込む。また自分自身をも清めなければならない。古代イスラエルにおいても、神殿では決して葬儀は行われなかった。

喪に服する期間

聖書にはまた、古代イスラエル人はモーセとアロンの死の際に、「30日間」泣き悲しみ、喪に服したと記されている(旧約聖書申命記34章8節、旧約聖書民数記20章29節)。一方、10世紀に日本でつくられた『延喜式(えんぎしき)』によると、汚れにふれて神事にたずさわってはいけない忌みの日数を、人の死ならば「30日」と定めている。

日本とイスラエルにのみ見られる風習

また三ヶ月以内の胎児の流産や、手足の一部を欠いた者の死体の汚れは「7日」の忌みとされている。このように死者の汚れに関する日本神道の考えと、古代イスラエルの風習は大変よく似ている。シルクロードのほぼ両端のイスラエルと日本に、きわめてよく似た風習が存在しているのである。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエルの人たちの記録であり、私たちたち日本人の信仰と生活のルーツなのです。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人として、聖書を読むことは大切なことだと思います。

新約聖書 マルコによる福音書 6章30~44節

さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。

ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。

ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。

イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。

そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。

みんなの者は食べて満腹した。そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。パンを食べた者は男五千人であった。

休息を提案したイエス

二人ずつ組になって宣教の訓練に送り出された弟子たちがイエスのもとに戻って来て、その報告をしました。イエスと弟子たちはいつも群衆に囲まれていましたので、イエスは人のいない所へ行って休むことを提案しました。休息を取ることもまた大切なことだと思います。

羊飼いのいない羊のようだ

ところが、群衆はそれを許してくれませんでした。イエスはその姿を見て、飼う者のない羊のようでかわいそうだと思ったことが記されています。本来、それぞれが神様を見上げ、神様を中心にして生きるなら、羊飼いと共にいる羊のように平安と喜びがあると思います。神様に選ばれ、神の民であるユダヤ人でも、毎日の生活の中で神様を見失ってしまうと、このように羊飼いのいない羊のようにさまよう生き方になってしまうということでしょう。イエスは群衆に神様を中心にして生きることを教えたのだろうと思います。

奇跡的な食事

そして、食事も与えました。文字通りに理解するなら、五つのパンと二ひきの魚が増えて、男だけでも五千人が満腹し、最初より多くのパンと魚が残ったということです。事実の記録であれば、これは超自然的な出来事です。神様の力がイエスを通して働いていたということでしょう。弟子たちはイエスからパンと魚を受け取って、群衆に配る体験をしたことになります。

いかがでしたか

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本書の目次

一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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