【日本人と日本文化】クラクションの鳴らない日本

交通イメージ

確かに海外では絶えず車のクラクションが鳴っています。クラクションが鳴らないのは日本の大きな特徴かもしれません。ルース・ジャーマン・白石さんの著書「日本人が世界に誇れる33のこと」からご紹介します。

クラクションに表れた日本と海外の違い

ニューヨーク、デリー、ホノルルなどの、どこの都市へ行っても、クラクションの音が絶えず、大きく聞こえてきます。ところが東京は、街の中をゆっくり散歩していても、クラクション音があまり聞こえません。

日本人の素晴らしい想像力

クラクションが少ないのは、日本人が、独特の想像力を備えているからだと思います。まず人に迷惑をかけないようにと考える。そして、何が人の迷惑になるか、それをしないためにはどんな振る舞いがよいかを、それぞれが想像する——これが日本人のルールです。

日本人が持つ力

人に迷惑をかけないためには、我慢(他人への忍耐)強さも必要になります。この我慢強さを通して、日本は集団調和が実にとりやすい環境となり、独特の団結力が維持できているのでしょう。団結力といっても、日本の場合、スポーツのチームのような勝利を勝ち取るためのハードなチームワークではなく、全国どこに行っても見られる「平凡な思いやり」のことです。

日本人の我慢強さと思いやり

わたしは、日本人の我慢強さと思いやりの美しさを実感しています。アメリカ人は一般的に、我慢や忍耐が苦手です。気持ちが高まると、深く考えず、結果をシミュレーションせずに、感情的に行動を起こしてしまう傾向があるのです。

即行動のアメリカ人

これが行動力や実行力として評価されることもありますが、判断ミスに結びつくシーンもたびたびあります。ボスの判断に我慢できず、すぐに転職する。相手の浮気に我慢できず離婚する。学校の教育方針に納得できず、子供を転校させてしまう。時には長すぎる牧師の話に我慢できず、教会を変えたりもします。

慎重な日本人

直ぐに「白・黒」を判断して、即動き出すのはアメリカ流です。しかし日本人は、まわりに対しての影響をいったん考えます。「今クラクションを鳴らすと、歩行者がビックリするかもしれない」「前の車は高齢者かもしれない」そんなふうに、相手や状況に対してイマジネーションを働かせ、ちょっと様子を見る習慣があるのです。

さまざまな面で役立つ日本人の習慣

この習慣が、転職の際に慎重なシミュレーションをしたり、仕事ではクライアントの利益を考えたり、部下の能力と仕事量を考慮したりするなど、さまざまな面で役立っているようです。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

人の迷惑にならないかと考えたり、他人への配慮が自然とできる日本人は素晴らしいと思います。それはイエスの教えた心であり、太古の昔から日本人が引き継いで来た心だと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、日本人の心だと思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マルコによる福音書 9章14~29節

さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。群衆はみな、すぐイエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄ってきて、あいさつをした。

イエスが彼らに、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」と尋ねられると、群衆のひとりが答えた、「先生、おしの霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。

霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。

イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。

そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。

イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。

すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。すると、イエスは言われた、「このたぐいは、祈(いのり)によらなければ、どうしても追い出すことはできない」。

何を論じ合っていたのか

イエスがペテロとヤコブとヨハネを連れて、山を降りると、大ぜいの群衆が他の弟子たちを取り囲み、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていました。何を論じ合っていたのでしょうか。群衆はイエスの姿を見て、非常に驚いて、駆け寄って来て、あいさつをしたと書いてありますので、何か良からぬことを論じ合っていたのかもしれません。

不信仰とは何か

おしの霊につかれたむすこを弟子たちのところに連れて来たが、弟子たちは追い出せなかったと聞いて、イエスは「なんと不信仰な時代だろう。いつまで我慢できようか」と言って嘆きました。不信仰とはどういうことなのでしょうか。それは神様を中心にしないで、人間を中心にすることではないでしょうか。

信仰とは、祈りとは

このむすこの父親は「信ずる者には、どんな事でもできる」とイエスから叱責を受けましたが、人間的に考えて、どうせできないとか、無理だと考えることは確かに人間中心であり、不信仰ではないでしょうか。神様にはできるということを中心にすることが信仰ではないでしょうか。たとえ人間的には絶望であったとしても、神様には希望がある。それが信仰ではないでしょうか。イエスは弟子たちに、そのために大切なことは「祈り」だと教えたのではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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