【日本とイスラエル】割礼、正月、七草粥

鏡餅

日本とイスラエルに共通する習慣について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介いたします。

お七夜

日本にもしイスラエル人がやって来たのであれば、日本に割礼の風習があるだろうか。私は、日本の皇室で割礼が行われているという噂を聞いたことはあるが、一般には、日本に割礼の風習があったか否かを確かめることができていない。今日の一般の日本人の間には割礼の風習はない。しかし、日本には古来「お七夜(しちや)」といって、生まれた子供を親戚や知人に披露し、子供の名前を紹介するときを、生後七日目の夜に行う風習がある。

生後八日目の割礼

生後七日目の夜というのは、ユダヤ式の数え方でいうと生後八日目にあたる。これは「生後八日目の割礼」というイスラエル人の風習の名残なのだろうか。イスラエル人は生後八日目に親戚や知人の前で男子の誕生を披露し、割礼を施し、名前を述べて、共に子の誕生を喜び合った(女子の場合は最初の安息日)。現在もそうである。それまでの七日間、子供に名前はない。これは日本の風習と同じである。

正月の餅と七草粥

日本には、古来、正月を盛大に祝う風習がある。多くの日本人は元旦に、まだ夜も明けないうちから神社に初詣を始める。また元旦から餅を食べ、七日たつと、餅の代わりに七種の菜を入れた七草粥を食べる。旧暦では一月一五日が正月だった。

種を入れないパンの祭

小谷部全一郎によれば、七草粥も、平安朝以前は一月一五日に行われていた。この風習は古代イスラエルにあった風習と同じである。古代イスラエルでは、ユダヤ暦の一月一五日から七日間は「種を入れないパンの祭」(または過越の祭)と呼ばれ、人々は「種を入れないパン」、ヘブル語で「マツァ」を食べた。

マツァとモチ、苦菜と七草

イスラエルの「マツァ」と日本の「モチ」は、発音も意味も、作り方も、そして目的も非常によく似ているのである。またイスラエル人は、一月一五日にはとくに苦菜(にがな)を添えて食べた。

パン種を取り除け

日本人はまた、正月が来る前に、必ず家の中の大掃除をする。そうしたことを見るとき、ユダヤ人は、「ああ、自分たちの習慣と同じだな」と思う。なぜなら、ユダヤ人も「種を入れないパンの祭」の前に必ず家の大掃除をしたからである。「あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない」(旧約聖書出エジプト記12章15節)と聖書に記されているので、祭の前に大掃除をして、家の中からすべてのパン種を取り除かなければならなかった。(本からの抜粋引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。日本とイスラエルには深い関係があることが分かります。聖書は決して外国の宗教の本ではなく、私たち日本人の信仰と習慣のルーツが記されています。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読むことが大切だと思います。

新約聖書 マルコによる福音書 10章46~52節

それから、彼らはエリコにきた。そして、イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。

ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。と叫び出した。多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。

イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。

イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

エリコのバルテマイ

エリコはエルサレムにほど近い、比較的大きな町です。そこでバルテマイという名の盲人のこじきの目が見えるようになったという出来事が記されています。それが事実の記録であるかどうか私は実証することはできないので分かりませんが、バルテマイという名前も記されていること、何かの教訓を伝えるための喩えとも書かれていませので、事実の記録として書かれているのではないかと思います。

あなたの信仰があなたを救った

「何をしてほしいのか」と問われて、バルテマイは「見えるようになること」と答えましたが、イエスは「行け、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。バルテマイは目が見えるようになっただけでなく、救いも得たということでしょう。それは「あなたの信仰」だとイエスは言いました。バルテマイは目が見えるようになることを、信仰によっていただいたということだと思います。

自己中心を退け、神様を中心にする

信仰とは、人間中心、自己中心を退けて、神様を中心にすることに他なりません。バルテマイは難しい神学を理解した訳でもなく、ユダヤ教をやめてキリスト教に改宗した訳でもありません。ただイエスを神様から特別な権威が与えられた者と認め、イエスを通して神様の超自然的な力が働くと考えて、目が見えるようになることをイエスに求めたのだと思います。それは人間中心ではなく、神様を中心とする信仰であったということでしょう。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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