【日本とイスラエル】結婚に関するイスラエルと日本の共通点

三々九度をする花嫁

日本とイスラエルの共通点について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として日本で10年以上過ごしたことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。今日は結婚についてです。

結婚式

神道式の結婚式とユダヤの伝統的な結婚式は似たところが少なくない。神道式の結婚式では、花婿と花嫁の間に酒が酌(く)み交わされ、両者は同じ盃から飲む。ユダヤ教式の結婚式では日本酒ではなく、ぶどう酒が用いられるが、花婿と花嫁の間に酒が酌み交わされ、やはり同じグラスから飲む。ただし、この風習は聖書には出てこない。タルムード時代からの風習である。これはキリスト教にはない風習である。

角隠し

日本の神道式の結婚式においては、花嫁は頭にかぶり物をしていて、顔の上半分を隠している(角隠し)。このかぶり物は、現在は目の高さくらいまでしかないが、昔は顔全体を覆い隠すものであった(被衣という)。かぶり物は、昔は日本の婦人が宮参りをするときなどにもかぶられた。

女性のかぶり物

女性が頭にかぶり物をする風習は、古代イスラエルにもあった。今もユダヤ人の女性は、結婚式のときにかぶり物(ベール)をする。外出のときなども、スカーフを頭からかぶり、顔をおおう風習が古代イスラエルにあった。シナゴーク(礼拝堂)などに来るときは、女性は必ず頭にかぶり物をしなければならなかった。

神官の結婚

神道の神主がみな結婚していることも、神道の重要な特徴である。神道に独身制はない。現代の日本では仏教の僧侶もたいてい結婚しているが、これは明治以来の風習である。それ以前は、仏教の僧侶は独身が当たり前だった。日本以外の仏教の僧侶はみな独身である。カトリックの神父も独身である。しかし神道には古来、神官の独身制はない。これは古代イスラエルの祭司、また現代のユダヤ教のラビも同じである。

亡き夫の弟に嫁ぐ

ある日本人女性が次のような思い出を語ってくれた。「伯母は、自分の夫がまだ子のないうちに戦死したので、亡き夫の弟に嫁いだという話を母から聞いた。しかし現代は好きな人と結婚して当たり前だから、当時はどうしても母の言葉を飲み込めなかった。けれども、これがユダヤの風習と同じだと知って驚いた。」たしかにこれは、「兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない」(旧約聖書申命記25章5節)とある聖書の言葉と同じ風習である。現代の日本では、このような風習はもはやほとんど見られなくなっている。しかし、つい最近までは広く見られた風習であったようである。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書はイスラエル人の歴史の記録であり、日本人の信仰と風習の原点です。キリスト教とは切り離して、日本人として聖書を読むことが大切です。

新約聖書 マルコによる福音書 12章35~44節

イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊に感じて言った、『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいる。それなら、どうしてキリストはダビデの子であろうか」。

大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾けていた。イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるだろう」。

イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちは、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

ダビデの子

「ダビデの子」とはダビデの子孫ということでしょう。キリスト、つまりメシヤ(神様から特別な権威を与えられた者)はダビデの子孫から生まれると旧約聖書に預言されていましたので、「ダビデの子」とはメシヤを意味したのだと思います。

「主」とは、主人という意味で、僕に対する主人という意味の他に、王様や先生、また神様に対しても使ったようです。ダビデがメシヤを「主」と呼んでいるのに、メシヤはダビデの子孫だというのはどういうことかという質問ですが、聖書の専門家、ユダヤ教の指導者たちは答えることができなかったのでしょう。堂々と語るイエスの話を群衆は喜んで聞いていました。

律法学者と貧しいやもめの違い

いつも人々から一目置かれたいと思っている律法学者と貧しいやもめの違いは何でしょうか。中心が自分なのか、それとも神様なのかの違いではないでしょうか。その違いは人の目には分からなくても、神様には分かります。そして、それぞれ自分でもその違いははっきりと分かっているでしょう。永遠の命とは神様を中心にして生きることを言っているのだと思います。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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