【日本人と日本文化】権利意識が低い日本人

権利意識が低いと言うよりも、権利を主張することを潔(いさぎよ)しとしないのが日本人だという気が私はします。ルース・ジャーマン・白石さんの「日本人が世界に誇れる33のこと」という本から紹介します。

権利意識が強いアメリカ人

アメリカ人は、特に大きな成果がなくても「給料をもらって当たり前」「手厚い待遇を受けて当然」といった権利意識が強いように思います。アメリカは労働組合が強い国なので、その影響ではないかともいわれています。労働組合はもともと、労働に対する対価がきちんと支払われていない、待遇が悪すぎるといった問題を解決するために、労働者が集まって自分たちの正当な権利を獲得しようということで生まれたものです。

由々しきこと

ところが、最近のアメリカはその権利意識が行きすぎている印象があります。サンフランシスコに住んでいる友人から、由々しきことを聞きました。電車の乗り換えがわからず、インフォメーションで駅員さんに尋ねようとしたら、足を机に載せたまま、携帯電話で話しながら「ちょっと待って」と言われたというのです。

それでも堂々と権利を主張する

そんな怠惰な勤務態度は、日本では許されません。しかし彼のような人は、外国では珍しくありません。しかも、権利国家のアメリカでは、どんなにいい加減でも、「自分は給料をしっかりもらう権利がある」と堂々と主張します。しかし、それはアメリカ人の本来の姿ではありません。アメリカにとって、非常に危険なシグナルだと思います。

謙虚な日本人

一方、日本人を見ていると、権利意識があまりないように感じます。むしろ、日本人の口からよく聞くのは、「わたしなんかまだまだです」「こんな至らない自分を働かせてもらえるだけで十分」「勉強させてもらいながら給料をもらえるなんてありがたい」といった、非常に謙虚な言葉です。なかには、アメリカ人並みの権利意識をもっている日本人もいると思いますが、10人中8人が権利意識の強いアメリカ人に比べて、日本人は10人中2人程度ではないか、そんな感覚で見ています。

日本人の「まだまだ感」

日本人のこうした発言の奥には、「まだまだ感」があることに気づきました。何をやっても、いくつになっても、日本の人たちは「自分はまだまだです」という意識をもっています。そしてこの意識があれば、日本人が日本を出たときに非常に強いと思います。誰に対しても上から目線にならないので、誰からも受け入れられ、仲間に入りやすくなるからです。皆が過剰な権利意識を捨てて、日本人の「まだまだ感」に学び、謙虚になるべきだと思います。(本からの引用は以上です。)

歴史的背景の違いもある

欧米では戦いによって個人の権利を勝ち取ったという歴史があるのに対して、日本では親が子供を守るように、天皇が国民の権利を守り、リーダーが部下の権利を守って来たので、それは部下の側から主張したり、勝ち取ったりするものではないという考えがあるからではないかと私は思います。そして、いただいている恩恵に対して、私はまだまだ十分には応えられていないというのが日本人の感覚ではないでしょうか。

神様に守られている日本人

その源泉は神様から来るものだと思います。私たちは神様からどれほど大きな恩恵をいただいていることでしょう。神様に対して自分の権利を主張するのではなく、いくらかでもその恩恵に応えて生きて行きたい。それが日本人の心ではないかと思います。労働組合という考えも労働者が搾取されるという酷い社会で生まれたもので、本来の日本人には合わないものだと私は思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。大切なことは自己中心を退けて、神様を中心にして生きることだと思います。自分が中心になれば、権利の主張も出て来るでしょう。しかし、神様が中心になれば、私はまだまだだなということになると思います。そのためにも毎日時間を決めて、神様に思いを向けて祈り、聖書を読んでみてください。聖書はキリスト教の教典ではなく、日本人の原点です。

新約聖書 マルコによる福音書 11章1~11節

さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。

そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。

そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、

「ホサナ、主の御名(みな)によってきたる者に、祝福あれ。今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。

こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。

なぜイエスはろばの子が繋がれていることを知っていたのか

イエスはひとり先にその村に行かれ、話をつけていたのではないかと解説する学者もいます。それなら、その時にろばの子を連れ来れば良かったのではないかという気もします。いずれにしてもそういうことは書かれていないので分かりません。ただ、なぜかわかりませんが、イエスはそのことを知っていて弟子たちにろばの子を連れて来るように指示したということです。

ろばの子に乗って

大きな馬ではなく、大人のろばでもなく、ろばの子に乗って、イエスはイスラエルの首都、神の都、エルサレムに入りました。どの程度の大きさのろばの子なのか分かりませんが、決して大きくはないでしょう。大人であれば、足が地面についてしまう程度の大きさだったかもしれません。それは高い所から人を見下ろすような威圧的な雰囲気とは正反対の様子だったのではないでしょうか。

神様から権威を与えられた者

それでも人々は神様に権威を与えられた者としてイエスを迎えた様子がここには記されています。「宮」とは、エルサレムにある大きな神殿です。ユダヤ人はこの神殿で神様を礼拝することを誇りとしていたのだと思います。イエスは宮に入り、すべてのものを一通り見て、それからベタニヤで宿泊するために出て行かれたことが記されています。いよいよイエスと弟子たちはエルサレムにやって来ました。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」