「わたし自身、仕事のなかで、人材採用の場面を数多く経験してきました。そこで気づいたのは、日本とアメリカの評価尺度の違いです」と語るのは、日本在住24年(執筆当時)、ハワイ出身のアメリカ人ルース・ジャーマン・白石さん。彼女の著書「日本人が世界に誇れる33のこと」から紹介します。
ワンマン企業とエブリワン企業
個人を優先するアメリカをワンマン組織とするならば、日本の経営者は、言ってみればエブリワン(全員)のチームワークを求めます。そして、エブリワンでうまくいくためには、企業の継続性に対する忠誠心や仕事に対する忍耐強さが貴重になるのです。
犬の散歩を欠かさずに行っている
日本の学生も同じマインドをもっており、履歴書には「毎日の犬の散歩を欠かさずに行っている」とか「同じところでアルバイトを継続し、接客業を学んだ」などを強調してアピールする人たちがたくさんいます。最初わたしには、面接で犬の散歩をアピールする学生の気持ちがさっぱりわかりませんでした。
企業に対するロイヤリティ(忠誠心)
アメリカの企業は、即戦力を第一に考えます(そのせいか離職率も高止まりしています)。それに比べて日本の企業に入社する新人は、結果を出すスピードは遅いかもしれません。しかし社員が企業に対してもつロイヤリティを考えて長い目で見れば、間違いなく日本企業のほうが長期的に機能するでしょう。
即戦力を期待しない
来日して早々に、リクルートの総務部に配属されたときのことを思い出します。日本語がほとんどできないわたしにとって、何より困難な仕事は電話の応対でした。言葉を間違えて、先輩に怒られ、悔しい涙を何度流したか、数しらずです。しかし誰も「ルーシー、専門分野の英語だけに集中し、即戦力になってください」とは言いませんでした。
人を育てる
先輩たちは、失敗によるラーニングの時間を与えてくれることで、わたしに投資したのです。そのお陰で、退職して20年たってもリクルートに対して強いロイヤリティがあり、チャンスがあればいつでも応援したいと考えています。社員のロイヤリティを高めることが、日本企業の得意分野ともいえるでしょう。
日本のロイヤリティマネジメント
人材は、時間をかけて成長します。わたしは、アメリカの企業がグローバルな活躍を望んでおり、その希望が強ければ強いほど、日本の企業をパートナーにすることを勧めています。それは、日本のロイヤリティマネジメントを取り入れるところに、アメリカ企業の新しい可能性が生まれてくると信じているからです。(本からの引用は以上です。)
本来の日本企業の姿
終身雇用。年功序列。職場とはコミュニティーであって、社員はみな家族のようなもの。単なる労働力でも、人件費でもない。そこで生活し、そこで成長し、そこで人生を送る。それが本来の日本企業の姿であると思います。最近では欧米流の企業観も入って来ていますが、私は本来の日本企業の在り方が世界のモデルになると思っています。それは神様を中心とした日本人の生きざまの一つの形でもあるように思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の考え方の原点でもあると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 15章33~41節
昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「そら、エリヤを呼んでいる」。ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとして言った、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。
イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」。
また、遠くの方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサロメがいた。彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
神から見捨てられる
「神から見捨てられた」とは、どういうことなのでしょうか。ただただ神様の思いを中心にして歩んで来たイエスでしたが、この最期の時に、神様を見失ったということなのでしょうか。そうではないと思います。イエスが神様を見捨てたのではなく、神様がイエスを見捨てたとイエスは言っています。人類の罪を背負い、その罰をイエスは身代わりに受けたのだと聖書は言っています。神様の裁きとは、神様から見捨てられるということではないでしょうか。イエスは全人類に代わって、そのような裁きを確かに受けたということを示しているのではないでしょうか。
神の子であった
その姿を見て、ローマの百卒長は「まことに、この人は神の子であった」と言ったと記されています。最後まで神様を中心にして生き抜く姿を目の当たりにしたということではないでしょうか。それはユダヤ人ではなく、ローマ人にも分かったのでしょう。
そこに12弟子の姿はなかった
そこにはイエスの12人の弟子たちの姿は記されていませんが、ガリラヤからずっとイエスに同行して来た女性たちの姿があったことが記されています。イエスは十字架の上で確かに息を引き取られた。多くの人がそれを目撃したのだと思います。
いかがでしたか
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」