【日本とイスラエル】モーセの律法と大化の改新の詔

古文書風

日本とイスラエルの類似した風習について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上滞在したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」からご紹介いたします。

「男女の法」とモーセの律法

大化の改新時に施行された法は、モーセの律法(トーラーの教え、旧約聖書)を思わせるものが多い。たとえば、大化の改新時に施行された「男女の法」に、「男奴隷と女奴隷の間に生まれた子は、その母である女奴隷につけよ」とある。これは古代イスラエルでも同様だった。(旧約聖書出エジプト記21章4節)

倍にして徴収せよ

また大化の改新の「朝集使(ちょうしゅうし)の項に、「不当に自分の身に取り入れたものは、倍にして徴収せよ」と命じられている。自分のものでないものを偽って自分のものとして得るような人間がいたら、「二倍」のものをその者から取り上げよ、との意味である。これも、モーセの律法と同じである。(旧約聖書出エジプト記22章9節)

「旧俗の廃止」

一方、大化の改新時の「旧俗の廃止」の項においては、「死者のために、生きている者が断髪したり、股を刺したりする・・・旧俗はことごとくやめよ」と言われている。死者のために生きている者が自分を傷つけるという風習は、今日も様々な民族に見られる。大化の改新の詔(みことのり)はそれを禁じた。そしてこれを禁じるのは、モーセの律法においても同様だったのである。(旧約聖書レビ記19章28節)ユダヤ人は聖書の教えによって、自分の体に傷をつけることや入墨を禁じられていた。それは異教の風習だからである。

剃髪の禁止

モーセの律法においてはまた、祭司をはじめ一般の人々も、頭の毛を剃ることを禁じられていた(旧約聖書レビ記21章5節、19章27節)。仏教の僧侶は頭を剃るが、神道の神官は頭を剃らない。そして入墨もしない。

裁判について

また興味深いことに、やはり大化の改新の「旧俗の廃止」の項に、人々の裁判について、「たとえ明らかな三人の証人があっても、皆で事実を明らかに申し立てて、その後に官にはかるべきである。みだりに訴えをすべきではない」とある。この言葉の背景には、証人は一人ではいけない。少なくとも二人、あるいは三人いなければいけない。しかしたとえ三人いても、みだりに訴えをすべきではなく、もし訴えをするなら、よくよく皆で事実を明らかに申し立ててからにすべきである、という考え方があるように見受けられる。じつは、これはモーセの律法における考え方に通じたものである。

二人、三人の証言

モーセの律法においては、「どんな咎(とが)でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、一人の証人によっては立証されない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」(旧約聖書申命記19章15節)と言われているのである。これは一人の証言では、それが容疑者を陥れるための嘘である場合もあるからである。

過大な償いの禁止

また同じく「旧俗の廃止」の項に、たとえば馬を人に預けている間に、預かっている人の不手際で馬が死んでしまったような場合、過大な償いをその人に要求するという風潮がこれまで世間によく見られたと言われている。しかし大化の改新では、そうした償い要求を厳に禁じる法律が出された。これもモーセの律法の精神と同じである。

旧約聖書でも禁じられていた

「ろばでも、牛でも、羊でも、またどんな家畜でも、その番をしてもらうために隣人に預け、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるとかして、目撃者がいない場合、隣人の絶対に手をかけなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主がこれを受け入れるなら、隣人の償いをする必要はない」(旧約聖書出エジプト記22章10~11節)と聖書に記されている。このように大化の改新で出された法律は、モーセの律法に多くの点で似通っている。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化に深い影響があるようです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を読んでみてください。

新約聖書 ルカによる福音書 1章39~45節

そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。

御使の言ったとおりだった

「あなたの親族エリサベツも不妊の女と言われていたのに、老年ながら子を宿し、すでに6か月になっている」という御使ガブリエルの言葉を聞いて、マリヤは大急ぎでエリサベツのところに行ったのでしょう。確かに御使の言った通りであったことをマリヤは確認したことがここには記されいます。マリヤは神様の力が働いていることを実感したのではないでしょうか。

必ず成就すると信じる

ここにはエリサベツがマリヤに「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」と言ったことが記されていますが、本当にその通りだと私も思います。「信じる」というのは、何を中心にして生きるのかという意志であり、決断だと思います。ですから、たとえ人間的には信じられなかったとしても問題はありません。それでも、信じること。つまり、人間中心を退けて、神様を中心にして生きること。そういう人は幸いだということを著者ルカはこの箇所で言いたいのだと思います。

人間中心か、神様中心か

結局、人生は何を中心にして生きるのかということが重要だと思います。人間を中心にして生きるのか、それとも神様を中心にして生きるのか。そのどちらかだと思います。それは意志の問題であり、決意の問題だと思います。幸いな人生を選んでください。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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