【日本とイスラエル】日本語の中のヘブル語

琵琶湖

日本とイスラエルの類似した風習について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介します。

すべて偶然と言えるのか

ほかにも研究者たちは、ヘブル語と日本語の間に存する多くの類似性をあげている。中には偶然の類似もあるだろう。しかし、すべてが偶然によると考えることができるか。二つの言語の間に、よく似た言葉があまりに多いとき、そこには語源的な結びつきがあると考えねばならないであろう。

扱いに注意すべきものもある

なかには扱いに注意すべきものもある。たとえば、アイデルバーグが述べている「キニヤン・トラ」である。聖書には、出エジプトをしたイスラエル民族は、シナイ山でトーラー(律法)を授かったと記されている。それから彼らは約束の地カナン(イスラエル)への旅を開始した。つまり、『律法を授かった』年に約束の地カナンに向かい、そこに自分たちの国をつくろうとした。

「キニヤン・トラ」と「キノエ・トラ」

同様に日本書紀を見ると、神武天皇は「キノエ・トラ」(甲寅。干支による時の表し方)の年に東征に向かったとある。アイデルバーグは、この神武天皇が旅立った年「キノエ・トラ」を、ヘブル語の「キニヤン・トラ」と解釈した。そしてそれは、『律法を授かる』の意味であると[キニヤンは取得の意、トラ(トーラー)は律法の意]。

熟語としては6世紀以降

しかし、『律法を授かる』という意味の熟語としてキニヤン・トラが使われるようになったのは聖書時代ではなく、その後のタルムード時代(6世紀以降)になってからなのである。

意味の類似と語源

一方、日本の「平安京」と「エルサレム」の意味が同じだということも、よく言われる。しかし意味の類似だけで、そこに語源的な結びつきがあるかどうかを判断することはできない。ある人は、日本の「琵琶湖」とイスラエルの「ガリラヤ湖」の類似について述べている。ガリラヤ湖はイスラエル十部族の時代には、その名を「キネレテ湖」といった。この名は、琵琶や琴を意味するヘブル語キノールに関連している。つまりキネレテ湖を日本語にすれば、琵琶湖になるというわけである。

何か別の理由が必要

しかし、こうした例は興味深いが、琵琶湖とキネレテ湖との語源的結びつきを証明するものではない。それは単に似ているということにすぎない。もし関連があるとすれば、その関連を証明する何か別の理由がさらに必要である。

語源は注意が必要

これらは日本語とヘブル語の関連として、よく言われる例である。本当に語源的結びつきがあるかどうかについては、言語学的によく調べてみなければならない。語源は注意を要する。とはいえ、日本に来たユダヤ人にとって、自分に親しみある名前を日本の中に発見することは楽しいことではある。(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、私は日本人との関係も否定できないと思っています。キリスト教の教典としてではなく、日本人としてどう生きるのかを考えるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 ルカによる福音書 2章41~52節

さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引き返した。

そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。

するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。

ユダヤ教の慣例の中で育てられたイエス

イエスはユダヤ教の慣例の中で育てられていたことが分かります。ユダヤ人であればユダヤ教の慣例の中で育てられるように、日本人であれば日本の慣例に従って育てられるのは当然のことだと思います。最近では日本の伝統を大切にしない人たちも多くなっているのかもしれませんが、もう一度、それぞれの文化伝統の慣例を見直してみることも大切ではないでしょうか。

それは自立

イエスが宮の中でユダヤ教の教師たちと話しているのを見て、イエスの両親は驚いたようです。12歳と言えば、日本では小学校6年生の年齢ですが、それはユダヤ教でも、かつての日本でも大人の仲間入りをする年齢です。両親はイエスの言葉を理解できませんでしたが、イエスは人間的にはヨセフとマリヤの子でありながら、精神的には神様を父として、すでに自立していたことをルカはここで示しているのではないでしょうか。神様を中心にして生きるとは、このような自立を意味していると私は思います。

いかがでしたか

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本書の目次

一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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