「私自身が37年という日本の生活体験を踏まえて言えることは、やはり『侘び』『寂び』の日本人の感性の素晴らしさです。」と語るのは、日本人男性と結婚したイスラエル人、野田ドリットさん。加藤恭子編「私は日本のここが好き!外国人54人が語る」からご紹介いたします。
ごく普通の日本人が持っている高い感性
例えば、「茶道」や「能」、「俳諧」などに見られる趣。「虫の音に対する日本人の感性」について見ても、鈴虫を飼い、虫の音を聴き、そこに心が洗われて秋の憂愁に心を静かに休めるといった行為は、イスラエルでは少ないと思います。ところが日本では、ごく普通の人でもその感性を持っているのです。
世界に発信していく誇るべき文化
仲秋の名月には、ススキとお団子を供えるなどして、月見を行うといった風流な生活習慣に見る感性も同じですが、これらは日本人に特有のものではないでしょうか。こうした「侘び」「寂び」の感性をもっと日本人は大切にすべきで、「世界に発信していく誇るべき文化」ではないでしょうか。
日本人の「奥ゆかしさ」
日本人は自分を「見せびらかす」ことをしません。控えめであるのがよいとされています。これが日本人の「奥ゆかしさ」なのでしょうか。私の主人も芸術家としての優れた才能を持っていますが、人前ではそうした素振りはいささかも見せません。その意味では、主人も典型的な日本人の一人であるのかもしれません。
失われていくのではと危惧します
ところで、こうした日本人の良さや「古き良き日本の伝統文化」が、最近失われて行くのではと危惧します。例えば電車の中でもシルバーシートに若い人が座り、高齢者が目の前に立っているのに席を立とうともしない。また、電車の中での携帯電話は禁じられているのに話し続けているなど、公共のモラルの低下を懸念します。
大切なこころを持ちつづけて頂きたい
私はこの先も日本に住み続けたいし、日本人が大好きです。平和な生活を考えるうえで何よりも大切なこころ——「侘び」「寂び」、「奥ゆかしさ」を日本人は持ちつづけて頂きたい。(本からの引用は以上です。)
神様を中心とした日本人のこころ
このような日本人の感性は日本の四季の美しさの影響もあると思いますが、何よりも人間中心ではなく、神様を中心にして、その大きな守りの中で生かされているという日本人の生き方から出て来るものではないかと私は思います。人間が中心となり、そこに驕り、高ぶりが出て来ると、様々な問題が出て来るのではないでしょうか。気をつけなければならないと思います。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、日本人の心の原点でもあると思います。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 5章1~11節
さて、群衆が神の言(ことば)を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図したので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。
イエスの教え
イエスの評判が広まり、人々が押し寄せて来たので、イエスは舟に乗り、岸辺にいる群衆に教えました。群衆はイエスの口を通して語られる神の言葉を聞こうとして押し寄せたとルカは書いていますが、その教えの内容は記されていません。それは「神の国の福音」、つまり自己中心を退けて、神様を中心にして生きる幸いのことであり、それがいつもイエスの教えであったので、繰り返し書く必要がなかったのではないでしょうか。
イエスの弟子となる
ここにはシモン・ペテロやヤコブ、ヨハネといった人たちがイエスの弟子になった様子が記されていますが、マタイによる福音書やマルコによる福音書の内容とは微妙な違いが見られます。マタイによる福音書とマルコによる福音書はほぼ同内容で、このように書いてあります。
新約聖書 マルコによる福音書 1章16~20節
さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。
「人間を取る漁師になる」
イエスが「人間を取る漁師」という言葉を使ったことは共通していますが、どういういきさつで声をかけたのかは微妙に食い違っています。おそらく、ルカはマタイやマルコが書いた福音書を写したのではなく、独自の取材、情報によってこの福音書を書いたのだと思います。細かな部分に食い違いがあることによって、それは複数の人たちの証言であることが分かり、その内容の信憑性は高いと感じられます。
いかがでしたか
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本書の目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
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