【日本とイスラエル】景教徒はユダヤ人だったのか

西安

日本とイスラエルの類似した風習について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。

景教徒はイスラエルの失われた十部族?

1841年、米国ニューヨークで、アサヘル・グラント著『景教徒は失われた十部族か——彼らのアイデンティティに関する証拠』という、非常に興味深い本が出版された。グラントは医者であり、キリスト教宣教師でもあった人物である。景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)は、日本にもたくさん渡来している。だからこの本は私にとっても興味深いものであった。

景教

景教と呼ばれるキリスト教の一派は、もともと中近東で生まれた。東方に広がり、かつて唐の時代の中国(7~10世紀)でも大流行し、その後もアジアにおいて大きな影響を与えた宗教である。

景教徒に関する直接の証言

19世紀に生きたグラントは、自分の生涯の大半を景教徒と共に過ごした。今日では景教徒の数は非常に少ないので、彼の体験と報告は貴重なものである。彼によれば、ペルシャ(イラン)や、イラク、アルメニア、クルジスタンなどに住む者たちはみな、景教徒たちはイスラエルの失われた部族の子孫であると信じていたという。

イスラエル人特有の風習

景教徒たちは実際、イスラエル人特有の風習の中に生きていた。彼らは古代イスラエル人と中近東の人々の言語であったアラム語を話した。景教徒たちは、旧約聖書に禁じられている食物を口にしなかった。

割礼もあった

彼らの名前にはまた、イスラエル人特有の名前が多い。景教徒にはイスラエル人と同様、「十分の一献金」、また犠牲の風習があった。初穂を捧げ、イスラエル人と同様、安息日を守る。また断食の日をイスラエル人と同様に実施し、至聖所も持っている。景教徒は過越の祭を守り、生後八日目の子どもに割礼と洗礼を施す。彼らにはまた、「のがれの町」の風習があった。(旧約聖書民数記35章)

手島郁郎の証言

また、景教徒がイスラエル人であったことについて、手島郁郎(後述)も同様の証言をしている。手島は昭和14年に、中国の奥地、山西省の運城(ユンチョン)にいた。このとき彼は上司の命令により、回教徒の村出身のボーイを雇って、雑役に使っていた。そのボーイが語ったところによると、彼の村の人々は今は回教徒として暮らしてはいるものの、豚は食べず、もものつがいの上の腰の筋肉も食べない(イスラエル人の風習。旧約聖書創世記32章32節)。先祖はイスラエル人である。しかし、100年前の戦争で家が焼き払われ、他の町からここへ逃げてきたという。

宣教師ブロム夫妻の証言

これを聞いた手島は、さらによく調べてみた。そして、その地に50年前から来て伝道しているスウェーデン人宣教師ブロム夫妻から、こう聞かされたのである。「山西省の山奥の僻地には、古代の景教のキリスト教徒の子孫が潜伏している。ただし彼らの多くは、今は道教の俗信に化したり、少なからず回教徒やカトリック教徒となっている。・・・景教徒はシルクロードを通って、中国にやって来た。注意すべきは、彼ら景教徒たちは、実際はユダヤ人クリスチャンであったということである。彼らは民族的にイスラエル人であった」(本からの引用は以上です。)

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとしたイスラエル人の記録であり、日本人に深い関係があると考えられます。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きる日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。

新約聖書 ルカによる福音書 6章1~5節

ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。

そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれも食べてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。

また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。

安息日の律法

ユダヤ教では、安息日の労働は禁じられています。それ自体はモーセに与えられた十戒に基づくものです。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(旧約聖書出エジプト記20章8~11節)

宗教ではなく、神様の声

それは休息の命令であり、神様を中心にせよという命令だと思います。細々とした戒律を定めて、それを守ること自体を目的にしてしまうと、途端に宗教になってしまいます。大切なことは神様を中心にして生きることであり、それは戒律を守ることではなく、それぞれの良心で神様の声を聞いて従うことだと思います。「人の子」、つまりメシヤは「安息日の主である」とは、そういうことではないでしょうか。

いかがでしたか

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本書の目次

一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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