日本とイスラエルに関連した事柄について、日本ユダヤ教団のラビ(教師)として、日本に10年以上居住したことのあるマーヴィン・トケイヤー氏の著書「日本・ユダヤ封印の古代史」から紹介しています。
真に学問的な研究が少なかった
イスラエルの失われた部族は果たして日本にやって来たか—この点に関して三笠宮は、これまで多くの人々がなしてきた研究は表面的・皮相的なものが多く、なかにはこじつけ的なものや極論、行き過ぎ等もあって、真に学問的な研究が少なかったと指摘された。私も同感である。歴史の真実が明らかにされるためには、真に学問的な研究を積み重ねなければならない。日本の歴史は謎に満ちている。三笠宮は、信頼できる文献、考古学的発見、また厳格な研究を積み重ねることにより、諸説の真偽を確かめ、歴史の謎を解明していかなければならないと考えておられる。
日本オリエント学会を発足
彼は日本オリエント学会を組織した。これは中近東、すなわちメソポタミヤやエジプト、イスラエル等について研究するためのもので、すでにイスラエルや他の所でも優れた考古学的発掘をなし、その成果を公表している。
一つはっきりしたこと
三笠宮によれば、日本の過去の歴史に関して、一つはっきりしたことがある。それは古代ペルシャからの日本への影響である。古事記や日本書紀をみれば、古い時代に日本とペルシャの間に交易があったことがはっきり書かれている。奈良の正倉院には、ペルシャからシルクロードを渡って六世紀、あるいは七世紀頃に日本に渡ってきたガラス工芸品、絹織物、その他が数多く保管されている。
ペルシャとはどんな所だったのか
かつてイスラエル民族の父祖アブラハムがいたカルデアのウルという所は、のちのペルシャ帝国の領地内だった。また北王国イスラエルの十部族はアッシリヤ帝国に捕囚になったが(紀元前八世紀)、そこはのちにバビロン帝国に征服され、そののちペルシャ帝国に征服されたのである。
ペルシャとイスラエル民族の関係
一方、南王国ユダのユダヤ人は、バビロン帝国に捕囚となったが(紀元前六世紀)、そこはそののちペルシャ帝国の領土となった。ペルシャの王は寛大な政策をとり、ユダヤ人が祖国イスラエルに帰ることを許した。それでイスラエルに帰ったユダヤ人も多かった。しかし、旧約聖書のダニエル書やエステル記にみられるように、ペルシャ国内に残るユダヤ人も多かった。
シルクロード
彼らユダヤ人の中には、その後シルクロードを通って東に向かった者も多かったのである。実際、紀元前の時代からシルクロードを旅する人々の大半は、ユダヤ人であった。シルクロードには、六日の道のりごとに、ユダヤ人コミュニティとシナゴーグがあったくらいだ。それは、ユダヤ人は七日目ごとに安息日を迎えるので、その日は旅ができず、シナゴーグで礼拝をする必要があったからである。
ユダヤ人の影響
したがって「古代ペルシャの日本への影響」というのは、ユダヤ人ぬきには考えられない。古代ペルシャの影響が日本に多分にありながら、ユダヤ人の影響が皆無であったということはありえない。古代ペルシャの影響が多分にあったのなら、当然ユダヤ人による大きな影響も日本にあったと考えられるのである。
シルクロードを知ること
景教徒たちも、ペルシャ方面からシルクロードを通り、中国を経て、日本にまでやって来た。秦氏の人々は、手島郁郎の研究によれば、もともと弓月国(クンユエ)(現在のアラル海とアフガニスタンの間にあった。七世紀に滅亡)からシルクロードを東に来た。この弓月国はもともとペルシャ領内だった地である。シルクロードを知ることは、日本人と日本の謎を解明する近道なのである。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書もまたシルクロードを通って、日本にもたらされ、日本人の文化、習慣、信仰に大きな影響を与えているのかもしれません。外国の宗教の本という考えは脇に置いて、聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 8章4~18節
さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬(たとえ)で話をされた、「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。
弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。
この譬はこういう意味である。種は神の言(ことば)である。道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言(みことば)が奪い取られる人たちのことである。
岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみにだされないものはない。
だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
神の国の奥義を知ることが許されている人
神の国の奥義を知ることが許されている人と、そうでない人がいるとイエスは言っています。聖書にはイエスが弟子たちだけに話した奥義が記されていて、こうして読むことができることは幸いだと思います。
聞く耳を持つ
「聞く耳を持つように」「聞き方に注意するように」と言われているようです。私たちは皆、神様から良心が与えられているので、神様の声なき声に耳を澄ますなら、何が神様の御心にかなうことであるのか、何が正しいことなのか、それぞれ聞くことが出来るのではないでしょうか。しかし、それを実践するか、無視してしまうかによって、人生は大きく違って来るのではないでしょうか。日々、こうして聖書を開き、神様の声に耳を傾ける時間を持つことは、人生に大きな影響を与える重要な時間ではないかと思います。
いかがでしたか
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」