日本とイスラエルに関連する事柄について、畠田秀生著「日本は聖書の国だった!」からご紹介いたします。
神代説話と旧約聖書の人物
神武天皇以前の神代説話と旧約聖書の人物の物語とがよく似ているのは偶然を通り越している。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と「士師記(旧約聖書)」エフデ。高天原(タガーマノハラ)とタガーマ州のハラン。ニニギとヤコブ(イスラエル)。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)(妹)とラケル(妹)などは、累々とその家系的同一性が続く。
アグビドール・シャハン教授
イスラエル文化教育省地方単科大学監督官、アリエル大学で軍事史を講じるアビグドール・シャハン教授は、ヘブライ語で日本の数々のことばが意味をもつことを「失われた十部族の足跡」の中で、高天原について、「タカ」という言葉は、アラム語で「机、台」を意味する。「ハラ」はヘブライ語で「山」であるが、中国語の影響で「ハラ」はまた、「高さ」を意味する象徴概念になったという。
日本語とヘブル語
名前に類するものとして、外人(ガイジン)、日本人とそれ以外を分けて考えることばでありヘブル語でゴイジンはユダヤ人以外という意味である。神さまの名前にはヤの発音が多い。八上(ヤガミ)神社、八幡(ヤハタ)、ヤシロ、八坂(ヤサカ)、弥栄(ヤサカ)、八百万(ヤオヨロズ)の神がある。イスラエルのヤー(ヤハウエ)は神の基本名でありその「ヤ」が頭文字となっている。
旧約聖書エゼキエル書にある「枯れた骨」の幻
これら日本に存在するものは、古代イスラエルにあって栄えていたものであって、本来の姿から程遠くなった。生き生きとしたいのちが見られない。ゆえに枯れた骨とは言い得て妙である。かろうじてその原型をとどめている骨のように、その骨の数々に預言せよ(神様のことばを語り聞かせよ)と神さまは、エゼキエルに言った。
イスラエルと日本
このような硬い石地をもつ国がふたつある。ひとつは何千年も国土をもたなかったユダヤで、現在イスラエルの名づけられている国、他のひとつは固有の国土を何千年と維持してきたイスラエルの枯れた骨のようなものをもっている国、日本である。(本からの引用は以上です。)
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統、習慣、信仰、国民性に深い関係があると思います。キリスト教の教典としてではなく、日本人の心を知るために聖書を読んでみてください。
新約聖書 ルカによる福音書 15章1~32節
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。
そこでイエスは彼らに、この譬(たとえ)をお話しになった、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使いたちの前でよろこびがあるであろう」。
また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。
それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕(しもべ)を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。
兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。
すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
3つの譬
パリサイ人、律法学者といったユダヤ教の指導者たちは、取税人や罪人たちを見下していたのでしょう。確かに彼らは褒められた人たちではなかったでしょう。しかし、イエスの話を聞こうとして近寄って来た彼らを、神はどんなに喜んでいるかということをイエスは3つの譬をもって教えたのだと思います。
神の喜び
3つの譬に共通していることは、たとえ失われていた人々であったとしても、神に立ち帰ることを、どれほど神が喜ぶかということでしょう。それは悪くないといったレベルではありません。友人や隣り人を呼び集めて、一緒に喜んでくださいと言うほどの喜びです。正しい人にまさるよろこびだとイエスは教えました。
神に立ち帰る
そして、3つ目の譬では、不満を持つ兄の姿を通して、パリサイ人、律法学者の姿を示したのでしょう。それまでの生活がどんなに自己中心で問題だらけであっても心配いらない。本心に立ち帰るなら、今、神に立ち帰るなら、神の喜びはどんなに大きいことなのか、イエスはそのことを教えたのだと思います。
いかがでしたか
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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」